「――旦、那?」
目の前の身体が力を失ったように傾いて、壁に手をついたなら倒れることだけは避けられたようだった。
支えようと伸べた掌は行き場をなくして虚空に留まり、けれど依然様子は芳しくない。
頭を押さえ、立ち直れぬままに壁に背中を預けてしまう。
「気にするな、さほどの問題はない」
「問題ない、って言っても……」
そんな様子を見せつけられ、何ゆえ鵜呑みにできようか。
詳細は未だ知らない。知っていいかも分からない。
触れてのいいかも、自らの掌が彼の望むものであるかどうかも分からない。
「次の仕事までには治す」
そういう話じゃなくて、……そもそも、歩ける? 大丈夫?」
「問題ない、と言った。しばらくすれば歩ける程度には戻る」
ただ彼の身に起こる不調がどうしようもなく恐ろしく、横たわる距離を前に足など一歩も動かせそうになく。
しかし彼から目を離せる筈もないのだ。
置き去りにされる恐怖もまたこの足元に転がっている。
「……じゃあ、見てる」
その中で自分に許される精一杯がそれだと思っていたから、
「妙な奴だ。――見ているくらいなら、肩を貸せ」
彼にその逡巡をたやすく破られてしまって、一瞬、どうすればいいか分からなかった。
「……あ」
慌てて手を差し出す。
皮膚は相変わらずの死人のような冷たさで、腕で支えた身体には力が入っていない。
安堵に比例して不安が跳ね上がるのが自分でもわかった。
こうして触れられたはずなのに、ひどく、不確かだ。
「……旦那、体調悪いの?」
「整備不良だな」
「……整備?」
「さもなければわざわざこんな時間に出かけない」
「……そうなんだ」
彼の先導に従い歩みを進める。
自分の知らない道を辿りながら、問うことのできる境界を探りながらでは、自然言葉も減る。
元々言葉数の多くない彼とであれば、必竟沈黙に支配されることとなって。
だから途中で気付けた。
彼の向かう先は病院であるのだと。
もういい、と言われた。
まだ駄目か、と問うた。
そうして許されたからここに居る。
看護師の去った病室で瞼を伏せて横たわる彼の、傍にいる。
医療知識のないロジェでもそうと分かる、奇妙な措置だった。
輸血であることは間違いない。
けれど明らかにおかしい点は、血液パックの量が妙に多い点と、
何より輸血に先んじて看護師が採血を始めた点。
その採血の量も通常では有り得ない程の多量である。
お世辞にも綺麗とは言えない色の血を大量に採って――むしろ抜き取って――それこそ彼が出血多量でショック死してしまわないか心配になるくらいの頃になって、やっと採血が終わった。
そして大量に用意された輸血用の点滴を付けられる。
その過程を、彼の横顔を、ロジェはただ、眺めていた。
「待っていてもつまらないだろう」
点滴の量がだいぶ減った頃だった。
淡々とした問いかけを、ロジェは頭を振って否定する。
「……そうでもないよ。確かに、やることはないけどさ」
それでも本当にやることがなかったら、その時は相応に戯れる相手をロジェは持っている。
「知っといた方がいいことだと、思うから」
つまりはそう思ったから。
彼に有事の起きた際に、自分が何も知らないままではいけないのだと思った。
どこまで知っていいのかは未だ分からないけれど、知ってもいいと許されたことであるのならば。
それは自分が知るべきことだ。
自分が知って備えるべきことだ。
「お前は本当におかしいな。こんな面倒なものにわざわざ付き合う必要があるか」
「面倒なものに付き合ってるわけじゃないよ。旦那に付き合ってる」
「私自身、自分を面倒なものだと思っているが」
「それが旦那なら、それでいい――んじゃないか」
少なくとも自分は、面倒だからというだけの理由で、このひとのことを切り離せるようにはできていないのだから。
その返答に何か思うところがあったのか瞳を伏せて、けれど口から吐き出されたのはため息だった。
鬱陶しがられてしまっただろうかと彼を窺う。
「……定期的に血を入れ替えてやらないと、自分で血が作れないものだから、持たない」
実際に吐き出された台詞は全く違う意味を持っていた。
彼が自分の身体について話すことは珍しい。
「何度も言ったが、死んでいるのでな。生きていれば必要のない保守作業が必要になる」
「だから整備?」
「ああ。治療というわけでもない、整備というのが一番それらしい」
「……そっか。旦那が生きるために、必要なんだな」
「少なくとも動きまわるためにはな」
生きているという言葉の定義は、このひとと自分の間では、依然大きな違いがある。
それを埋められるとも埋めようとも思わなかった。
だから頷く。
「どれくらいの頻度でやってるの?」
「今は月に2・3度というところか」
「今は?」
「病院で処置を受けられるようになったからな」
それは精霊協会に所属したからなのだろう。
であれば荒事にも通じておらず、ひととの関わりを断ちたがる彼が冒険者となった理由にも改めて合点がいく。
必要なことだったのだ。
「……昔はもっと少なかったってこと?」
「動けなくなるまでにどうにかしておかなければならなかったから、回数は多かった」
「うごけなく」
ぞっとしない言霊だった。
「……でも、今は、大丈夫なんだよな」
「ああ、問題ない。仕事には障りがない程度で管理しておく」
「仕事には、とかじゃなくて」
食い違っている。
その食い違いをどう表現すべきか迷って、彼の言葉がくるしくて、無意識に視線が落ちていた。
「……オレ、旦那がああいう風になるのは、怖いよ」
「……なら、なるべく見せないようにも気をつけよう」
「そうじゃなくてっ」
反射的に立ち上がる。
がた、と耳障りな椅子の音、自分の勢いに自分で萎縮する。
こんなことで声を荒らげてもどうしようもないのに。
ただ彼を困らせるものでしかないと分かっている筈なのに。
「……そうじゃないんだ」
否定だけを紡いでどうなるというのか。
自分の不甲斐なさに歯噛みする。
「………」
「………」
「……私は」
口火を切った彼に目を向ける。
「人の考えというのがよくわからない」
「……うん」
そんなことない、とその反駁は口の奥に押し込めた。
「だから問う。お前は何をそんなに気にする?」
そして彼に突き付けられた問いは、それこそ自らに投げかけたいそれでもあったのだ。
気に留める必要もないことにいちいち引っ掛かって自分でも煩わしい事この上ない。
「……オレは、旦那がいなくなるのが怖いから」
深みに嵌りゆくかのようなこの感覚を今ならはっきりと自覚できる。
一方で、自覚できたところで自分ではどうしようもないことも、同じく理解できていた。
「そういう風に、自分のこと顧みないみたいなこと言われると」
どうか放してと叫ぶ心は、一体誰のものなのだろう。
「……それが、すごくこわい」
この世界には恐ろしいものが多すぎて、それは自分の臆病のせいなのかもしれない。
ひとつだけ確かにある真実は、そこに恐怖が横たわっているという事実。
自分を見ている。
「断りなく勝手に消えたりはしないが」
そうして横たわるものを、このひとはあっさりと取り払うから。
「顧みないわけでもない。本当にそうなら、そもそも性懲りもなく今まで長らえてはいない」
「……そうなの?」
それが自分ばかりでないことをいつだって強く願っていた。
都合のいい言質を求めるような心持ちで、確かな言葉を求めていた。
「滅ぶ機会はいくらでもあった。それでも今なお、私はここにいる」
確約と言うには些か嘲りに過ぎた。
されど述べられただけの事実が自分の心に齎した安寧は如何許か。
それを彼に伝える必要はないのだけれど。
「……でも、旦那がここにいて良かったって、オレは思うよ」
だから零したのは違う本心だった。
「なら、私が長らえていることにも意味があるのだろうな」
「オレがいなくたって、きっとあるよ」
「さて、どうかな」
一人のためだけに生きる恐ろしさを今更伝えるまでもないのだ。
だから頷くだけに留めここに甘んじて、そうして彼の、傍にいる。