「ただいま」
留守を守る者などおらずとも、呼び掛けてしまうのは最早習慣に近い。
そこにひとなどいなくとも、誰にも声が届かずとも、染み付いた習慣として帰宅を告げて、そして心の端で小さな落胆を抱く。
ただそれだけのことだ。
「ふふ、ならおかえりって言っておこうかしら」
けれど今日は一人ではなかったから。
部屋で待つひとでなく同行者だけれど、それでも返る声があるというただそれだけの事実に馬鹿みたいな安堵を呼び起こされ、なんだか意味もなくおかしくなってくる。
振り返ればリーナが楽しげに部屋を見回しており、大したものなんてない、と軽く笑ってみせる。
貰ったお菓子とお酒を余してるんだ。良ければ食べに来ない? と。
いかにも陳腐な誘い文句だったけれど、彼女は快くついてきてくれた。
カッティングボードにシュトーレンを載せ、さくりさくりと切り分ける。
今切り分けているシュトーレンはマリーからクリスマスプレゼントにと貰ったものである。メッセージカードまで添えての丁重なプレゼントで、配達代行サービス越しに届けられたのは純粋に忙しかったからかはたまたそれとも。
それにしても菓子が好きだと言っていた彼女の方から先に菓子を送られてしまうとは、自分もなんとも気が利かない。上手いこと何らかの埋め合わせをしてやりたいものだと思う。
一つめを切り分け終え、もう一つへと手を伸ばす。
こちらは大武術会の試合の後、ベルベロッテから渡されたものだった。
年末年始はこの街にいないからと、挨拶というか土産というか、とにかくそういう口実でのプレゼントはこちらもなかなかサプライズで嬉しいものであった。
彼女は故郷の家族と一緒に年を越したのだろうか。また会った暁にはシュトーレンの感想とたっぷりの礼を送ると共に、その時の話でも聞かせて貰えたらいい。
「ロジェは部屋を汚くしない男性なのね」
「そんな几帳面な方でもないんだけどな、こっちじゃ貰い物もそんなにしないしね」
そう、こちらに来てからは冒険者稼業に専念しているから、こんな風に贈り物を貰えるのはなんだか久しぶりのことで、だからこそだろうか。
やたらめたらにその気持ちが嬉しくて、喜ばしくて、どうにも顔が綻んでしまう。
冬の風は冷たい。
「あら、お菓子とお酒貰ったって誘っておいてそんなこと言う?」
「お酒は一応買ったんだよ」
「そうだったの。失礼。ロジェはお酒も飲む人なのね」
「嗜む程度に? 嫌いじゃないかな」
酒を売ってくれたのはキヤだ。手触りの良さそうな髪を長く伸ばしている彼女の、まさにその髪を自分の腰布の金具に引っ掛けてしまったのが、ああして話すようになった切欠だったか。
最初は随分つれなくされたものだったけれど、話をする内に少し見直して貰えたようだった。酒を売って貰ったのも商売話の延長だったか、こういう縁は妙に快いものだと思う。
切り分けたシュトーレンを器に盛って彼女の元へと戻る。
食べてもいい、どうぞ、いただきます。ふたりで唱和して各々菓子へと手を伸ばす。
はむ、と一口。こちらはマリーに貰った方だったか、ナッツの香ばしさとラムに漬けられたドライフルーツの甘みが程よく生地に馴染んでいた。これに対するお返しに関して真剣に検討する必要がありそうだ。
「……にしても、こっちじゃないところではもっと貰ってたのかしら?」
貰ってた、とは、と少し頭が回らなくて、貰い物の話かと納得する。シュトーレンを飲み下してから、んー、と一度ばかり瞬きをして。
「んー。まあ、それなりに? お仕事だったし」
「ふーん、お仕事。……どんなって聞いたら、怒る?」
「……そーだなぁ」
揺れる尻尾が目に入る。随分と興味を持たれたものだと思った。
あまり褒められた仕事でもないし、つらつら語るものでもないのだけれど、それでも、まあ。
「……リーナならいいかな」
彼女が興味を持つのなら、話してやりたく思ったりして。
「色んなひとのご機嫌窺いして、お金もらう仕事」
「……色んなひと、ね」
「色んなひと。大きくなってからは女のひとのが多かったかな」
もう一口シュトーレンを。こちらはベルベロッテの方か。マリーのものよりスパイスの風味が少し強いけれど、そのぶんフルーツの甘みが引き立っている。粉糖も生地に馴染んでいて、これもこれで、なかなか。楽しく頭を悩ませるべき案件が更に一つ増えたようである。
一頻り味わったところで何か足りないなと首を傾いで、そういえば、と思い立つ。キヤから貰った酒を出していなかった。
ごめん、忘れてた、と台所の戸棚へと取りに向かえば、その背中に問いを投げられて。
「……ロジェはその仕事、好きだった?」
「んー。仕事としてやるぶんには、そんな嫌いじゃなかったよ?」
良い相手と上手くやれば気持ちいいし、そりゃ痛かったり手荒にされることもあったけれど、それ以外に生き抜く手段も見つからなかったし、なんだか愛されているような気もしたから。
それに違和感を覚え始めたのは、あのひとと生きることを望んだ時からか。
「……そう。そういうの嫌いじゃないからやってた、……って、わけじゃないのかしら」
「ま、生きる手段っていうか。嫌いじゃないからやってたし、生きるために必要だったからやってたよ」
「そっか。今は、やってないのよね」
「ん。今は冒険者で十分やっていけてるし、もういいかなって」
グラスに酒瓶を携えて戻る。
テーブルへとグラスを並べたなら葡萄酒をそこへ注ぎつつ、こんなところでこの話は終わりだろうかと、少しばかり気を抜いていたのかもしれない。
「知り合いの冒険者って、その時からの知り合い?」
核心を突くような問いに、動揺はうまく隠せたろうか。
質問してばかりでごめんなさいと、彼女はそちらの方を気にしているようだから、恐らく大丈夫だろうと思うのだけれど。
大丈夫だと、気にしなくてもいいよと注ぎ終わったグラスを差し出す。
――気にしないで欲しいと、そんなことまでは言わない。
「……そだね。その時の、元は――多分、お客様」
確か最初は買われたのだった筈だ。朦朧とした中の遠い日のことで、自分がそれをはっきりと記憶していないのが少しもどかしい。
あとは乞われるままに彼女について話を述べる。こうして語るにつけ、彼女が今は遠く在ることを実感させられるような、傍に在った彼女の輪郭を改めて再確認させられるような。
どちらにせよ、触れることなど、到底叶いはしないのだけれど。
「……大人の女性、かあ。憧れるわよね。ロジェ、その人のこと好きだった?」
「好きだよ」
その答えに何故だろう、少し驚かれたように見えた。
こうして語るくらいなのだから、少なからず好意を抱いている相手であることは想像に難くないと思うのだが。自分の話し方が悪かっただろうか。好意を示すのがそこまで下手な方ではないつもりなのだけれど。
「……人として? それとも、恋?」
「どっちも、かな。……でも、どっちかっていうと――後者、なのかなぁ?」
恋慕ではあるのだと思う。
そこに居れば目を奪われたし、居らずとも心が懸想して。
やわらかな形をしたこの想いは、確かに恋と表現するに相応しいそれなのだろう。
「ロジェの好きな人! 初恋の人、とかだったりするのかしら」
――初恋であるとは恐らく認めざるを得ない。
叶わぬものとまことしやかに囁かれるそれであると、認めてしまうのは少し心惜しい気もするけれど、これに類する想いを自分は未だ知らないから。
「今でも好きなの?」
「……うん。今でも好きだよ」
大好き、と、囁く声は彼女に届かない。
届かぬと知って胸に鎖した懸想を吐露することが、救いに繋がると信じたかった。
それが誰を救うとも知らず。
それに誰が救われるとも知らず。
「はー、素敵ね、好きな人が居るって」
今はただ目の前、僅かばかり頬を紅潮させて目を輝かせる少女が、妙に愛しいと思った。
「片思い?」
「……片思いかなぁ。そうじゃないと思いたかったけど、ちょっと、自信なくてさ」
「あら。微妙なところなのね。相手がどう思ってるのか、わからない感じなのかしら」
分からない。
あの日の答えに安堵して歓喜して、それを後生大事に抱えているのだけれど、現実として彼女はここにはいない。
忍び寄る空虚さから目を逸らすのにも限界がある。
それでも縋りもせで生きる術を自分は知らない。
そこにいた。
あなたはそこにいて笑っていた。
優しかった。暖かかった。大きかった。
それだけがただ、自分の拠る全てだった。
あなたの見る愛しいひとを知らぬままで。
「……その人とは、最近会えたの?」
「会えてないよ。ここにはいないから」
「どこかで、冒険を?」
「――遠くに、いるんだ。……冒険者は、やめちゃったから、依頼で会うこともないかな」
「そう。いつか、会いにいくつもり? 遠い、とこに」
「……会いに行けたら、いいんだけどなあ。 ……行けるかな?」
そのためには多くを手放さなければならなくて、昔は躊躇いなどなかった筈なのに、今はそれが恐ろしい。
あなたのために全てを棄てる、躊躇いなく須らく為す筈のその行為に、最早踏み切れなくなっている。
あなたがここにいないから。
この手があなたに届かぬから。
「行けるわよ。ロジェが行きたいって思って、諦めなかったら、絶対。わたくしが手伝えることがあったら手伝うし、ロジェの恋の応援、したいわ」
手の届く距離に在る彼女は、こんなにも優しいというに。
「……ん。じゃ、行けるって思う。……お願い、するかもしれないけど……」
よろしくな、と。
彼女に”それ”を頼んだなら、どういう顔をされるのだろう。
彼女はいない。
手は届かない。
温もりもなく追憶に指先はすり抜けて、触れられぬそれをひたすら求めてただ咽び泣く。
それでも。
この掌を包み込む温度に身を寄せれば、まだ生きていけるのではないだろうかと、ひとり錯覚に溺れて沈んだ。