発端といえば極々些細なことだったのだ。否、些細と言ってしまえば尚更彼の不興を買うのかもしれない。
とはいえ誰に悪意があったわけでもない、言うなれば事故のようなもので、しかし実害を被ったのは彼一人であり何の責任も持たないのも彼一人である。
ナインと自分が戯れに放って、そのままクテラが善意に提出して、それがそのまま通ってしまった不幸というか。
「……まさかあそこまで機嫌悪くするなんて……」
あれ以来彼はろくに部屋から出てこない。
隣で暮らしているのに生活の気配すら感じられず生きているのかどうか少し心配になる程だ。鍵は締まったまま、ノックをすれども声をかけれども反応はなく。
それでも隣に居てくれるならと、必死の体で繋ぎ止めた錯覚に安穏と身を沈めていた。
吐息は白に霞んで夜闇に紛れる。
気まずさからか最近は帰宅が遅くなりがちだ。何かとご機嫌伺いの代物を探して、これでは駄目だと肩を落とす。こんな気分では女の子へのお返しだって選べやしない。申し訳ないことをしていると思う。
隣の存在に心を預けているのに、その存在に怯え畏縮する矛盾には気付かずにいる。
背を向けている。
目を逸らしている。
外の空気は冷たい。身を震わせ、首を縮めコートに身を埋めて、帰路を歩く足が重い。
近づく下宿に物憂げひとつため息ついて、そののちふいと見上げた先の、
目に入ったのは割られた窓だ。
「……は?」
割れた窓越し薄明かりが揺れて、あそこは自室の隣の窓で、さてはてそれが示すものとは。
――思考の猶予が残されようはずもない。地を蹴る、挨拶もなく家に押し入って階段を掛けて、鼻腔をついたのは火の香り。嫌な予感という言葉では表現しきれない。
背中を伝うのは空気とは違う冷たさだった。
耳を打つのは扉越し、何やら聞き覚えのある声と硬質な――割れた窓ガラスの、音だろうか。がちゃがちゃと耳障りな。
あろう筈もない心当たりに内心首を傾げながらノックに返答を待った。
「……旦那? どうかしたの、大丈夫?」
「ふん、でもあたしは知ってるよ。どうやったら、あんたを動揺させられるのか……」
当然のように返事はなく。手を掛けた扉は鍵に鎖され開きはせず。
代わりに聞こえた語る声に、はたと瞳を瞬かす。
「――セレン?」
何故彼女が。
混乱と同時に思い起こされた嘗ての記憶が、――炎に囲まれた彼の姿が思惟を凍らせて、
「こうやって、囲んでやれば、少しは口が軽くなるんじゃあないの?」
不吉な台詞に、余りにも強烈な火マナの気配に、最早猶予は残されぬと知る。
それ以上はもう必要なかった。自分が呪言を紡ぐのに。
そうして気がついた時には惨憺たる有様だった。
視界に飛び込んだのは割れた窓、床を散らばるガラスの破片、煤けて焼けた床も天井も荷物さえ、水を被って雫を垂らす。
それらの風景の何よりも、一人立つ彼の姿の方が目を引いた。
部屋同様、手酷く水に濡れている。それをしたのは他ならぬ。
一度そこで血の気が引く。
「っ――セレン、何やって!」
「あたしはただ……ユハの悩みを聞こうとしただけで……うぇ……だめだ……身体が冷える……」
八つ当たりのように声を張っていた。
ここまで水をぶちまけたということは彼女もその例外でない。彼を挟んだ向こう側、恐らく窓を割って入ってきていたのだろう。
今は背中の炎の気勢を弱めて、力無く床に膝をついている。
「――ってあ、セレン!?」
重ねて吐くべきは問責か気遣いか迷う一方、会話の途中で倒れ伏した妖精を見て、流石にまずいと彼女に駆け寄った。
手を述べ小さな身体を抱え上げる。自分が呼び込んだ水マナを払って、代わりに火のそれを流し送る。
水を吸ったセレンの服が、同じく自分の服を浸していく。
「うぅ……なんでロジェがここに……。やっぱ……旦那と一緒に暮らしてんの……?」
近からず遠からず。いや近いか。
ぐったりと自分の腕に凭れる少女の認識を正すべきどうかに悩んでいる余裕はなかった。
ゆらり目に入った彼の姿と沈黙の重さが、圧倒的な存在感を主張する。
「だ、旦那、……大丈夫?」
「大丈夫に見えるか」
やばい、と思った。二度血が引く。
これは相当に機嫌を損ねている。ただでさえ籠城されていたところに重ねてこれだ、当然といえば当然だが。
「……い、生きては、いる?」
「知らん」
「はんっ、良かったじゃん……またロジェに助けられてさ……」
「これをみて、良かったというか、妖精」
最早不機嫌を隠す様子もない。
空気も沈黙も言葉も気も、何もかもが救いようなく重苦しい。
「……さて、私は寝床を探さねばならないらしい」
そうして暫しの静寂の後、気を取り直したように彼は言った。
「ちょ! えっ待っ、旦那、またああいうところはナシだからね!?」
「こんな時間から入れる宿がどこにあるやら」
「ない! ないから諦めて! オレの部屋使っていいから!」
「お前の部屋はお前の部屋だろう」
取り付く島もないとはこの事か。
こちらに構わず背を向けて、冷たさにか鈍い動作で焦げ濡れた荷物に手を掛けて、
「私は自分の宿を探すよ」
そう言い放って背を向ける。
水を吸ったローブは重たげに、明確な拒絶がそこにあった。
「待っ――」
腕にセレンが居なければみっともなく彼に追い縋っていたかもしれない。
けれど現実彼女はそこに居て、抱えた腕は塞がっていて、手を伸べただけで届く筈もなく。
水浸しに座り込んだまま、濡れた靴音を聞くことしか――
「待ちなよ旦那!」
至近距離で声を張られて少し驚く。
セレンへと視線を落とすと火マナの功か、声ばかりは元気な色を取り戻していた。
「何をそんなに不機嫌になってるのか知らないけどさ、ロジェに一言くらい、なんか言ってもいいんじゃない? 礼儀でしょ? だって、あんた絶体絶命だったじゃん」
言い募る彼女に彼が足を止めた。セレンの光も届かぬ距離、水滴を垂らすフードが重暗く彼の顔を覆い隠して、表情すらも窺えない。
ただ、一言。
「そうだな。世話になった」
紛れも無い途絶の意。
吐き落とされ叩き付けられた言の葉に、最早拠るべも残されず。
遠ざかる背を見送れば、やがてその姿も消えて、後はふたり残されるのみ。
「はぁ? なにそれ! ふざけてんのかー! いい加減にしろよー!」
呆然と見開いた目は濡れた足跡ばかりを映し、既に立ち上がる力も残らない。
ただ何事か叫ぶ声が聞こえると、他所ごとのようにそう思った。
ひたひたと床の水を服が吸い上げ、その色ばかりを濃くしていく。
「はん! 好きにさせとけばいいじゃん! あんな愛想も無ければ礼儀もなってないやつ!」
火精が何か言っている。憤懣やるかたないとでもいった様子だ。
一体何が気に入らないのだろう。一体何を憤っているのだろう。
間違ってしまったのは自分の方なのに。
嫌われてしまったのは自分の方なのに。
「いやだ……」
それにも関わらず、未練がましく首を振るのも、また。
「あっと、もう動けるから支えなくても大丈夫だよ。よっ、と……ロジェ? だいじょぶ? 顔が青いよ? ……おーい?」
肩を叩かれ揺すられて我に返る。
抱えていた筈のセレンがすっかり元気を取り戻してそこに立ち、案じるようにこちらを見ていた。
彼女には少し珍しい、動揺したような色を含んでいる。
「……追いかけたいなら、追いかければ良いんじゃない?」
ぽつり、当たり前のように齎された提案が、今の自分にはどうしようもなく非現実的だった。
「……でも、世話になった――って」
「うん、それで?」
もういらないのだと。必要ないのだと、そういうことだろう。
それが今更追い掛けたところで煩わしいだけに決まっている。
重ねて拒絶されるに決まっている。
それをどうしてこのひとはあっけらかんと片付けてしまうのか。
もう二度と聞きたくない。嫌がることを強いるのも突き付けるのも、突き付けられるのもしたくない。
吐き捨てられた言葉に身を縛られて、どうしようもなく凍えている。
寒い。
「あっちが自分勝手で通すなら、こっちも勝手を通せば良いじゃん。ふん、あたしならそうするね! まったくロジェまで陰気臭い顔してさー」
「……でも」
「燃やさない後悔より! 燃やす後悔! 何もしないで悔やんで何が楽しいんだかさー!」
そう声を荒らげる彼女に、いつしか指先が頼っていた。
乾いた服越し、伝わる温もりがあたたかい。ひとがいる。
今この傍に、ひとがいる。
「うわっとと、あんまり引っ張らないでよ」
「……っ」
言われて慌てて手を離す。
その様子が余程不審だったのかおかしかったのか、セレンはこちらを覗き込んで。
「……はやく行かないと、ほんとに見失うよ? 良いの?」
「………」
「まー、あたしも何か原因の一端があるみたいだし、一緒に探してやってもいいからさー」
室内の足音は濡れた床に紛れて既に消えた。
あれだけ派手に水に濡れたのだ、外の足取りまではまだ消えてしまってはいないだろうけれど。
けれどもう、見失ってしまうかどうかの問題ではなく。
むしろ、見つけてしまうことが恐ろしい。
あなたが遠い。
その遠さが今はむしろ優しくて、その遠さがただひたすらに恐ろしい。
「……旦那が、ダメなら、ダメなんだ」
「はー? でもロジェだって、あいつが居なくなるとダメなんじゃないの?」
首を振る。ひとを縛ることの無為も無法も、この身体は既に知っている。
ありもしない絆を求めたところで指は虚しく空を切るだけだ。
辿る先も行き着く先も見つからず、取り残された事実に寄り添い瞳を伏す。
縁など最初からなかったのだと、誰か優しく囁いてください。
最早関係のないひとなのだと、全て忘れさせてください。
あなたのことすらも忘れてしまって、喪失の悲しみに暮れることもなく、ただひとりで笑えたなら寂しさすらも感じない。
ただ空虚な缺落に身を横たえられたなら。
悲歎の海底に漂い沈み、何もかもを忘れて生きられたなら。
こんなところで涙を落とすこともなかった。