例えば、例えば、例えばの話である。
途絶に掌を振り払われるのと、優しく囁いた唇がいつしか傍にないのと、どちらの方が恐ろしいかと言えば。
為すべきを明確に示してくれるだけ、決別を告げられる方が安心できるのだ。
あなたを抱きながら踊るくだらない願いなど、最初から捨ててしまえるのだ。
もう傍にいてはならない。
それが分かればもうそれでいい。
自分が耐えればそれで済む。
伝い落つ涙も何もかも、見ないふりでひとり生きられるから。
「あーもう! 泣いてる場合かー!」
張り上げられた声に身を竦む。
彼女はそんなこと知ったことではないと、自分の手を掴んで引っ張った。そのまま外へと連れ出される。
「いいから探しに行くよ! ほら、涙拭えってば!」
「――ッ」
それに抗う力もなく、緩かながら導かれるまま、足は勝手に前を進む。
「ああ、くっそー! あいつどこに……あっ! 地面に水の跡残ってるじゃん! さっきの! バカめー!」
「さっさと追うよ! まったく、ロジェももう少ししゃんと歩けよなー!」
手を引かれる。足跡を追い掛ける。
風が強い。水を吸った服が冷やされて寒い。
掌が暖かい。
「そーら! 見つけたぞー! おーい!そこの旦那! 止まれー!」
そうして引かれ連れて行かれた先で見つけたあなたは、もう温もりを感じることもないのでしょう。
たっぷり水を吸ったローブは乾かない。張り付いた雪が寒々しい。
それでも平気な顔をしているから。
「馬鹿か、この寒さの中、着替えもさせずに人間を連れ出すな!」
張られた声に反射的に身を竦ませた。
――怒っている。彼がこんな風に声を荒らげるなど初めてだ。
やはり追うべきでなかったのだと足を止めかけるも、手を引く彼女はそれを許さない。
「はん! あんたが手前勝手に出てくから、そうせざるを得なかったんじゃん! 足跡までクッキリ残しながらさ! 阿呆め!」
意気揚々と怒鳴り返して一段と強く腕を引かれ、そのまま背を押されて前にのめる。
彼の方へ。
「ほら、ロジェ! あんたからも何か言ってやりなよ!」
「わ、ぅ」
「ロジェってば、旦那が勝手に出くの見たら、すっかり青白い顔になってさー!」
逃げる腰ごと押さえられる。
竦んだ身体も縺れた舌もろくに動きそうはなく、どうすればいいのか惑う自分へと、彼の姿が近付く。
……近付いて、来る?
その意味が諒解できなくて、また頭が白くなる。
もういらないはずなのに。
「話をするよりも宿に戻るほうが先だろう。ろくに喋れもしまい」
そんな有様で、彼の言葉も理解できるはずもなくて。
「……もど、る?」
「……ああ、戻る。言い訳も聞いてやる。さっさと歩け」
「………」
何もかも分からない。
けれど彼が戻ってきてくれるというのなら、自分がそれを拒む筈もないから。
無言のまま、一度だけ頷く。
「ははーん、ようやくあんたも頭に血が回ってきたんじゃないの?」
「貴様が生身のこれを寒空の下に連れだしたりするからだ。まったく、関わり合いになるとろくな目に合わないな」
「はん! たとえ寒空だろうとね、あたしの傍に居たんだもの、寒さなんて感じるもんか!」
「せめて濡れた服を着替えていればそうだったろうな。少しは人の常識を考えてくれ」
ふたりがなにか話している。その会話も耳を通り抜ける。
吹き抜ける風と同じ温度で、掌に何も残すことなく。
「ほら、何してんのロジェー。帰るってさ!」
「……ん、うん……」
ただ促されるまま呼ばれるままに歩み戻る。
降りしきる雪の中、火精の暖かな光が夜闇を照らしていた。
それを無明に立つ篝火とするには、自分の心は暗すぎた。
宿に戻ると水浸しの彼の部屋が目に入るが、努めて目を逸らしつつ自室へと移る。
冷えた部屋に冷えた服。それでも外よりはマシである。
セレンがいるとランプを点ける必要がなくて楽だな、と、どこか場違いなことを考えたりもした。
「ロジェさー、着替えどこ入れてるの? この辺?」
「……えと、ん。そのあたりに」
「んー? これかな? ほいほいっと」
「うん。それでいいと思う」
勝手にタンスを探られて服を放られる。それを適当にかき集めつつ、恐る恐るに彼を振り返った。
ローブはまだずぶ濡れのまま。表情も未だ窺えぬまま。
「……旦那もなんか、着替えないと、……」
「旦那も、ロジェの服に着替えちゃえば? 服びしょびしょじゃん」
言い損ねた続きはセレンが引き取る。
彼は渋々、と言った様子で、
「……そうするか」
そうして自分の服に手を掛けた。
別に変な服が好きだとかそういうつもりは毛頭ないけれど、それでも自分の服を彼に着られるというのは、なかなかに想定していない事態で妙に落ち着かない。
そんな風にどうでもいいことを気にかけていたためだろうか、
「寒気などないか」
その問いが自分に投げられたものだと一瞬気付けなかった。
思わず彼の顔を見返してしまう。
フードに隠されない表情。
無表情の、向こう側。
「……うん。別に、ない」
首を振った。今更寒さなどは気にならない。
ずっと前から寒いから、どんなに風が冷たくたって、服が濡れていたって、今更。
「そうか……。今日はもう布団に入って寝てしまうといい。疲れただろう」
「旦那は?」
「主人に詫びるついで、毛布を借りてくるとするよ」
「……オレも行く」
やらかした本人は自分なのだから。
頷いてふたり立ち上がったところでセレンと目が合って、そこで彼女が噴き出し笑う。
「あははは! そういう服も似合うじゃん旦那! あはははは!!」
この哄笑が家主や住人の機嫌を更に損ねなければいいなあ、とぼんやり思った。
「……で、言い訳はそれで終わりですか?」
「……あはー」
翌日。
あの後家主に粗相を詫び、毛布を借りてロジェの部屋で一晩を過ごした翌日である。
結局のところ責任は自分一人にあるのだし、何よりこういう役は自分の方が向いているから、とそういう風に理由をつけて、ロジェが一人で謝罪することにしたのだが。
「全く、何考えてるんですか。部屋全体を水浸しにするなんて……建物全体への影響とか分かってるんですか?」
なかなかこちらも取り付く島がない。
「あの……えーと、はい、すみません。できる限りで水は払ったんですけど」
「できる限りって言われましてもね……」
「弁償とか、しますし」
「当たり前です」
ばん、とテーブルを叩かれてじろりと睨まれる。
随分とこの女主人の機嫌を損ねてしまったようであった。
「これだから冒険者は……あなたの方はまだいいですけどね、あなたが連れてきた方!」
「?」
唐突に矛先を変えられて眉を寄せる。
「あんまり評判良くないんですからね。挨拶だけはそりゃするみたいですけど、ろくに喋りゃしないし」
「あの、それは」
「顔色も悪いしあんまり見かけないし、普段から何してるか分かんないし、何考えてるかも分かんないから不気味だって」
「―――」
「今回駄目になったのもあの人の部屋なんでしょう? なんなら、これを機会に出てもらっても――」
彼女の言葉が途中で途切れる。
無意識に伸びた自分の腕が、その手首を捉えていた。女のひとの細い手首。
彼女のそれよりも細い、戦うことのないひとの。
視線が落ちる。
「……ロジェ、さん?」
「……駄目なんです」
「はい?」
みっともない声だと思う。
けれどきっと、これくらいがちょうどいい。
「ごめんなさい――ごめんな、さ」
「あの、どうしたんです……? 大丈夫ですか、ちょっと、聞いて――」
訝しむ返答、案ずるように肩を掴まれて揺すられれば、意識的に力を抜いてそれに任される。
前のめりに傾ぐ身体が、頭が彼女の肩に凭れて、指先がその裾を掴んで縋る。
おねがいします、と哀れっぽく懇願の声、至近距離で顔を上げた。
息を呑まれる音も近い。
「……あの」
「いないと、困るんです。嫌で――我儘ですみません」
彼女の頬に掌を寄せて。
逃げられることはないと分かっている、最初からそういう相手だと、そのつもりで宿すら選んだ。
――”いざという時”、困らずに済むようにと。
自分の手管が通じる相手を、端から嗅覚で突き止めていた。
冒険者として生きていく。
そんな風に宣言したところで、結局根ではこのざまだ。
「……おねがい」
吐息に声を混ぜて囁く。
甘やかな睦言に似た響きで、いとしいひとにするように。
添えた手で引き寄せて、間近でその瞳を覗き込んだなら、
あとはもう溺れるだけで済む。