BACK NEXT TOP


19.溺れる先


 例えば、例えば、例えばの話である。
 途絶に掌を振り払われるのと、優しく囁いた唇がいつしか傍にないのと、どちらの方が恐ろしいかと言えば。
 為すべきを明確に示してくれるだけ、決別を告げられる方が安心できるのだ。
 あなたを抱きながら踊るくだらない願いなど、最初から捨ててしまえるのだ。

 もう傍にいてはならない。
 それが分かればもうそれでいい。
 自分が耐えればそれで済む。

 伝い落つ涙も何もかも、見ないふりでひとり生きられるから。

「あーもう! 泣いてる場合かー!」

 張り上げられた声に身を竦む。
 彼女はそんなこと知ったことではないと、自分の手を掴んで引っ張った。そのまま外へと連れ出される。

「いいから探しに行くよ! ほら、涙拭えってば!」
「――ッ」

 それに抗う力もなく、緩かながら導かれるまま、足は勝手に前を進む。

「ああ、くっそー! あいつどこに……あっ! 地面に水の跡残ってるじゃん! さっきの! バカめー!」

「さっさと追うよ! まったく、ロジェももう少ししゃんと歩けよなー!」

 手を引かれる。足跡を追い掛ける。
 風が強い。水を吸った服が冷やされて寒い。
 
 掌が暖かい。



「そーら! 見つけたぞー! おーい!そこの旦那! 止まれー!」

 そうして引かれ連れて行かれた先で見つけたあなたは、もう温もりを感じることもないのでしょう。
 たっぷり水を吸ったローブは乾かない。張り付いた雪が寒々しい。
 それでも平気な顔をしているから。

「馬鹿か、この寒さの中、着替えもさせずに人間を連れ出すな!」

 張られた声に反射的に身を竦ませた。
 ――怒っている。彼がこんな風に声を荒らげるなど初めてだ。
 やはり追うべきでなかったのだと足を止めかけるも、手を引く彼女はそれを許さない。

「はん! あんたが手前勝手に出てくから、そうせざるを得なかったんじゃん! 足跡までクッキリ残しながらさ! 阿呆め!」

 意気揚々と怒鳴り返して一段と強く腕を引かれ、そのまま背を押されて前にのめる。
 彼の方へ。

「ほら、ロジェ! あんたからも何か言ってやりなよ!」
「わ、ぅ」
「ロジェってば、旦那が勝手に出くの見たら、すっかり青白い顔になってさー!」

 逃げる腰ごと押さえられる。
 竦んだ身体も縺れた舌もろくに動きそうはなく、どうすればいいのか惑う自分へと、彼の姿が近付く。
 ……近付いて、来る?

 その意味が諒解できなくて、また頭が白くなる。
 もういらないはずなのに。

「話をするよりも宿に戻るほうが先だろう。ろくに喋れもしまい」

 そんな有様で、彼の言葉も理解できるはずもなくて。

「……もど、る?」
「……ああ、戻る。言い訳も聞いてやる。さっさと歩け」
「………」

 何もかも分からない。 
 けれど彼が戻ってきてくれるというのなら、自分がそれを拒む筈もないから。
 無言のまま、一度だけ頷く。

「ははーん、ようやくあんたも頭に血が回ってきたんじゃないの?」
「貴様が生身のこれを寒空の下に連れだしたりするからだ。まったく、関わり合いになるとろくな目に合わないな」
「はん! たとえ寒空だろうとね、あたしの傍に居たんだもの、寒さなんて感じるもんか!」
「せめて濡れた服を着替えていればそうだったろうな。少しは人の常識を考えてくれ」

 ふたりがなにか話している。その会話も耳を通り抜ける。
 吹き抜ける風と同じ温度で、掌に何も残すことなく。

「ほら、何してんのロジェー。帰るってさ!」
「……ん、うん……」

 ただ促されるまま呼ばれるままに歩み戻る。
 降りしきる雪の中、火精の暖かな光が夜闇を照らしていた。

 それを無明に立つ篝火とするには、自分の心は暗すぎた。



 宿に戻ると水浸しの彼の部屋が目に入るが、努めて目を逸らしつつ自室へと移る。
 冷えた部屋に冷えた服。それでも外よりはマシである。
 セレンがいるとランプを点ける必要がなくて楽だな、と、どこか場違いなことを考えたりもした。

「ロジェさー、着替えどこ入れてるの? この辺?」
「……えと、ん。そのあたりに」
「んー? これかな? ほいほいっと」
「うん。それでいいと思う」

 勝手にタンスを探られて服を放られる。それを適当にかき集めつつ、恐る恐るに彼を振り返った。
 ローブはまだずぶ濡れのまま。表情も未だ窺えぬまま。

「……旦那もなんか、着替えないと、……」
「旦那も、ロジェの服に着替えちゃえば? 服びしょびしょじゃん」

 言い損ねた続きはセレンが引き取る。
 彼は渋々、と言った様子で、

「……そうするか」

 そうして自分の服に手を掛けた。



 別に変な服が好きだとかそういうつもりは毛頭ないけれど、それでも自分の服を彼に着られるというのは、なかなかに想定していない事態で妙に落ち着かない。
 そんな風にどうでもいいことを気にかけていたためだろうか、

「寒気などないか」

 その問いが自分に投げられたものだと一瞬気付けなかった。
 思わず彼の顔を見返してしまう。
 フードに隠されない表情。
 無表情の、向こう側。

「……うん。別に、ない」

 首を振った。今更寒さなどは気にならない。
 ずっと前から寒いから、どんなに風が冷たくたって、服が濡れていたって、今更。

「そうか……。今日はもう布団に入って寝てしまうといい。疲れただろう」
「旦那は?」
「主人に詫びるついで、毛布を借りてくるとするよ」
「……オレも行く」

 やらかした本人は自分なのだから。
 頷いてふたり立ち上がったところでセレンと目が合って、そこで彼女が噴き出し笑う。

「あははは! そういう服も似合うじゃん旦那! あはははは!!」

 この哄笑が家主や住人の機嫌を更に損ねなければいいなあ、とぼんやり思った。



「……で、言い訳はそれで終わりですか?」
「……あはー」

 翌日。
 あの後家主に粗相を詫び、毛布を借りてロジェの部屋で一晩を過ごした翌日である。
 結局のところ責任は自分一人にあるのだし、何よりこういう役は自分の方が向いているから、とそういう風に理由をつけて、ロジェが一人で謝罪することにしたのだが。

「全く、何考えてるんですか。部屋全体を水浸しにするなんて……建物全体への影響とか分かってるんですか?」

 なかなかこちらも取り付く島がない。

「あの……えーと、はい、すみません。できる限りで水は払ったんですけど」
「できる限りって言われましてもね……」
「弁償とか、しますし」
「当たり前です」

 ばん、とテーブルを叩かれてじろりと睨まれる。
 随分とこの女主人の機嫌を損ねてしまったようであった。

「これだから冒険者は……あなたの方はまだいいですけどね、あなたが連れてきた方!」
「?」

 唐突に矛先を変えられて眉を寄せる。

「あんまり評判良くないんですからね。挨拶だけはそりゃするみたいですけど、ろくに喋りゃしないし」
「あの、それは」
「顔色も悪いしあんまり見かけないし、普段から何してるか分かんないし、何考えてるかも分かんないから不気味だって」
「―――」

「今回駄目になったのもあの人の部屋なんでしょう? なんなら、これを機会に出てもらっても――」

 彼女の言葉が途中で途切れる。
 無意識に伸びた自分の腕が、その手首を捉えていた。女のひとの細い手首。
 彼女のそれよりも細い、戦うことのないひとの。

 視線が落ちる。

「……ロジェ、さん?」
「……駄目なんです」
「はい?」

 みっともない声だと思う。
 けれどきっと、これくらいがちょうどいい。

「ごめんなさい――ごめんな、さ」
「あの、どうしたんです……? 大丈夫ですか、ちょっと、聞いて――」

 訝しむ返答、案ずるように肩を掴まれて揺すられれば、意識的に力を抜いてそれに任される。
 前のめりに傾ぐ身体が、頭が彼女の肩に凭れて、指先がその裾を掴んで縋る。
 おねがいします、と哀れっぽく懇願の声、至近距離で顔を上げた。
 息を呑まれる音も近い。

「……あの」
「いないと、困るんです。嫌で――我儘ですみません」

 彼女の頬に掌を寄せて。
 逃げられることはないと分かっている、最初からそういう相手だと、そのつもりで宿すら選んだ。
 ――”いざという時”、困らずに済むようにと。
 自分の手管が通じる相手を、端から嗅覚で突き止めていた。

 冒険者として生きていく。
 そんな風に宣言したところで、結局根ではこのざまだ。

「……おねがい」

 吐息に声を混ぜて囁く。
 甘やかな睦言に似た響きで、いとしいひとにするように。
 添えた手で引き寄せて、間近でその瞳を覗き込んだなら、

 あとはもう溺れるだけで済む。


BACK NEXT TOP

-Powered by HTML DWARF-