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20.遠く果てへ


 掴んだ腕は震えて細い。
 目に見えて強張る身体を引き寄せたなら、帽子の下から覗く明るい金色に目を奪われた。
 窺い見上げ、すぐに伏せられた赤も、遜色なく鮮やかだ。

「よう、少年」
「ぁ――」
「そんなに怖がらなくてもいい。取って食ったりはしないさ」

 逃げを打たんと引かれる身体を逃しはしないと強く握り、再び竦んだその顔を覗き込む。
 鮮烈な色の睫毛が至近距離で震える。固く凍りついたままの表情だが、随分と整った顔をしているものだとぼんやり思った。
 薄汚れていながら質の良いものと見て取れる身なりもその顔立ちも、帽子に詰め込まれた金色の鮮烈さも、吹き溜まりへと荷を運ぶこんな馬車には酷く不似合いだ。
 であればすぐに手を離してやった方が自然ではないかと、思考の片隅に考えてしまうくらいには。

 けれどここは出発したばかりの私の馬車の荷台で、入り込んだのはこの少年の方である。
 既に少年は抵抗を諦め視線を落としていた。しかし唇は引き縛られたまま、場違い感も相まって虐めているような気分になってくる。
 実際虐めていると言っても過言ではないのかもしれないが。

「なんでこんな馬車に乗り込んだんだ? 盗みか? 密航か? 盗賊団のスパイか何かか?」
「……っ」

 必死に首を振る様子を見る限り、少なくとも言葉は通じているようだった。

「……そう慌てるなって。取って食いやしないと言っただろう。それに、本気で君がそんなんだとは思っていないからさ」
「……」
「それでもだんまりかぁ」

 埒が明かないとはこのことか。俯きがちの少年を見遣って一度だけため息。
 そうしてその腕を解放した。
 虚を突かれた様子で赤い瞳に見上げられる。

「ほら、これで君は自由だ」
「……」
「君は私から逃げられる。逃げていい。この馬車の馭者は私だから、そのためにはこの馬車から居りなければいけない」

 ただ、と指を立てる。

「逃げないのなら話は別だよ」

 窺う色と視線を合わせて。

「君、その様子では食べ物もろくに持ちあわせていないだろう。食い繋ぐために何をする? 大切な行商品に手を出すか、私の食料に手を出すか、大方そんなところかね。流石に盗人――予備軍と言うべきかもしれないね、は放っておけない」
「……」
「であればどうしたらいいのか、という顔だね。全く、今時の子はこんな単純な教育も受けていないのかい」

 白い頬に掌を添え手繰り寄せる。
 その拍子にずれた帽子から尖った長い耳が覗いて、ああ、と少しばかりの納得、けれど今の本題はそこじゃない。
 頻りに瞬きを繰り返す少年に向けて、意識的に浮かべた笑顔でまず一言。

「お願いします、だ」
「……」
「頼んでごらんよ、私に向かって。この馬車に乗せてください、面倒見てください、ってね」

 そうすれば考えてやらんこともない。見返り次第だけどねなどと軽く茶化して肩を竦めて、改めて彼を見下ろす。目が合った。もう一度瞬き。
 そして少年の口が開く。

「お願い、すれば」
「ん?」
「……お願いすれば、聞いてくれますか?」

 か細い声だった。
 拠り所を見失ったような――元から持ち合わせていないような、そんな頼りない声。
 胸元で撚り合わされる指先もきっと、掴む先を知らないのだろう。そんなことを勝手に思った。

「考えてやらんこともない、と言った」
「……」

 再び黙られる。暫しの沈黙。
 いよいよ本格的に虐めている気分になって、お手上げだと一度掌を振って。

「いいよ。聞いてやろう」
「……!」
「ただし、だ」

 期待に瞳を瞠った顔、その鼻先に、びしりと指先を突き付ける。

「私のお願いもひとつ聞くこと。こちらばかり聞いていては不公平だからね」
「……」
「嫌かい?」
「……いえ」

 首を横に振ってから、改めてこちらを見上げてくる。
 深い色の紅玉に小さな決心。その指は相変わらず、何も掴めないままだけど。

「僕を、この馬車に乗せてください。……お願いします」

 そう懇願してくる表情は、それ程悪いものとは思わなかった。



 どうにも不思議な少年だった。
 見た目で言えば10代前半かそこらと言ったところか。エルフの年齢はいまいち分からないとはいえ、動作や表情がまだいとけない。ある程度見た目に見合った年齢であることは間違いなかろう。
 最初は編み帽子を深く被って頻りに耳を隠したがっていたが、その様子が煩わしくなって取り上げた。控えめな抗議の視線を受けたが荷台に乗っていれば私以外には見られないのだし、とどこ吹く風としていたら諦められた。それでいい。
 出自のせいなのかどうなのか知らないが、やたら視線が落ちる。表情が豊かではないというか、何かを圧し殺して黙っているというか、そういった印象が強い。
 パンや干し肉などの食事は文句を付けず食べる。小さく千切って口に運ぶ様は私などより余程上品だ。
 与えられた服も大人しく着る。改めて彼が着ていた服を検分してみたが想像以上に上質なもので驚いた。これを売り飛ばすことで彼一人を運ぶ対価としては十分過ぎるだけの金銭が得られるだろう。
 たまにマナと戯れて遊んでいる。精霊武具なしによくまあ、と感心するが、エルフにとっては当たり前のことなのかもしれない。時折歌など口ずさんでいる様子が目に入る。あれは私の結界術と相性が悪いようなのでやめてほしい。
 キスをしても、慣れた所作で瞼を伏せる。

「ん――は、ッふ」

 鼻にかかったような声を漏らすのにも特段戸惑う様子はない。
 深い口付けから唇を離せばぼうと赤い瞳に見返される。蕩けたような一方で、どこか虚ろで昏い色。
 そういうものは嫌いではない。

「……おねえさん?」
「ん。いや」

 キスを終えて抱き込んだ身体が細い。物憂げに見上げられて、誤魔化すように頭を撫でた。
 髪を梳く指が長い耳先に触れて、少年はむずがるように身を捩らせた。

「なあ」
「なんですか」
「乗せてください、と言ったよな」
「はい」

 最初の都市を出てから相当の時間が経っていた。
 勿論その間何もしていなかった筈もなく、着実に馬車を進めている。あの都市から私の目指す街は、遠い。
 普段はその長い道程を一人往くのだけれど、こうして同行者を得るとそれに溺れてしまいそうになる。よくない兆候である。

「私の向かっている先はな」
「……はい」
「ニヒツブルクという。何もない街だ」
「何もない」
「ああ。何もない」

 反芻をさらに反芻で返す。

「子どもが一人で生きられる街では決してなくてな」
「……」
「その前に交易都市がある。君のことはそこで下ろして――」

「嫌です」

 驚いた。
 この少年が人の言葉を遮るなど、荷台の上で捕まえてからこっち、一度たりとも起き得ぬことだったから。
 瞳にちらつくのは確かな決心。
 あの時の懇願よりも、余程強い。

「最後まで、連れて行ってください」
「……私の話を聞いていたのかい」
「はい。聞きました。……でも、最後までがいいです」

 俄かながら強固な主張。改めて恐ろしく珍しいことである。

「……馬車から下ろしたら最後、私は君の面倒を見られないよ」
「はい」
「というか、見る気がない。私がお願いされたのは、馬車に乗せてくれというまでだったしな」
「……分かっています」

 それでも、と言い募る。

「最後まで乗って行きたいのかい?」
「最後まで乗って行きたいんです」

 瞳に映る決意の中に、混ざりこんだものは果たして何であったか。

「理由を聞いても?」
「……遠くがいいんです」
「遠くが?」
「はい。遠くが」

 胸元で拳を握る。
 相変わらず縋る先は見つけられないようであった。

「遠くに、行きたいんです」



 違うのだと首を振り叫んだ。
 誰もそれを認めてはくれなかった。

『うまくやったよなぁ、お前。何? 媚売ったの? 実の父親に?』
『うわ、引くわー』
『いやでも他に理由なんて……ああ、精霊術得意なんだっけ? やってみせろよ』
『あははは、そんなんじゃ喋れないだろー』
『あそっか。っていうか泣いてるし』
『マジだ。この程度でー? 軟弱だなぁオイ』
『人間じゃないから心が弱いんだろ。これだから混ざり者はさぁ』

 自分などが選ばれるべきでなかったと、そんな事は誰よりも知っている。
 資格がない。勇気も覚悟も適性もない。穢らわしくて誰の前に出るにも自信がない。
 もっと相応しいひとなど幾らでもいた筈なのに、どうして、どうしてお父さん。

『私は、この家を継ぐべきはお前であると思っているよ』

 ――騎士になど。
 なるより唯のあくがれに過ぎぬ。
 誇り高きその称号を、自分如きが貶めていい筈がなかったのに。
 憧れごと辱められる未来など、少しも願ってはいなかったのに。

『お前が――お前さえ、いなければ』

 肩を掴まれ揺すられる。
 歪む瞳は何を映したか。
 紅い瞳は何を宿したか。
 憎悪を露わに言い募られて、その顔を見ることは叶わないまま。

『――お前など、あの日のうちに殺してしまえばよかった!』



 だからもう、この街から遠く。
 ハイデルベルクの遥か遠く、二度と顔を合わせぬ先へと。


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