逃げるようにただ潜って泳いだ先だった。
彼でなければいけない理由などは一つも見当たらなかったけれど、ただ、そこにいたから。
それで心を引っ掛けられてしまったのだから、最初の理由としてはそれだけでよかったのだろう。
そこから転げ落ちる恐ろしさについては忘れてしまっていた。
否。
忘れてしまっていたというよりは、努めて忘れていたと言うべきか。
封じられることのないあの日の慕情の揺らめきを心の奥底に垣間見たなら、それだけでもう、待つことなどできなくなるから。
でも殺すって言ってくれたじゃないか。
「どっちにせよそんな顔色じゃ行き倒れちゃうよ、何か食ったら? そこら辺に食えるとこあるだろ?」
口実は隠れ蓑になってくれただろうか。
握り込んだ掌の冷たさが妙に新鮮で、違和感を覚えるよりも前に思い出したのは、触り慣れた熱を孕んだ滑らかさ。
染み付いたそれとは似ても似つかない細さに、どうか縋らぬようにと力を緩める。
うまく行ったものだろうか。見下ろした先、深く被ったフードに隠されて、どうにも表情が読み取れない。
「必要なだけの食事は、とっているのだが…」
「必要な分取ってたらそんな顔色なんねーの! 悪いんだよ血の巡りが。前そういう人とよく過ごしてたから結構分かるつもり」
自分で踏み抜いてどうする。
まずいと思って妙に急いた気持ちを抑え込むように沿わせた掌が目の前のひととの温度差を強調して、
ああ、本当に冷たいんだと思った。
彼女よりも。
そういった瑣末であるべきものに思考を浸されながらに口を動かせる自分を褒め称えたかった。
全身に染み付いた習慣はどんな時だって忠実に作動し続けてくれるから。
それが忌々しく下劣なものに端を発していたとしても、今はそれに、感謝しなければいけない。
「死者は生き返らない、ということだな」
「あんたは生きてんだろ?」
「半分以上死んでいる」
「ごめん、よく分かんない」
よく分かっていないのは全てについてだから、今更何を言っても仕方がない気がするのだけれど。
彼なりに俺の意を汲んで説明してくれるこのひとは親切な人なんだろう。どうにも色々となんというか不思議な人でもあるみたいだけど。
それでも、それでも、それでも。
振り解かれない安心感には、甘えてしまう。
「死んでいるから老いない。それだけだ」
「……あー、じゃあ、ええと――死んでるけど、動ける人?」
「そうだな。お前は妖精の血が混ざっているようだが」
一瞬の緊張を悟られなかっただろうか。
「私はもともとただの人間で、今は半分死人というだけのものだ」
そんな告白すら容易く受け入れてしまうくらいには、多分、余裕はなかったんだけど。
誰でも良かったと言ったらこのひとは怒るだろうか。
誰でも良かったものが誰でも良くなくなる日を知っているから、この感覚すらたまらなく怖いのだけれど、
この感覚以外に縋る先を知らない。
でも怒られたら嫌だから黙っていた。
「ロジェ、だな。私を見て年上だと思うということは、だいたい歳は見た目通りか。…」
「ん。そろそろ止まってきたかな? って気分ではあるけど」
「なら、これから10年だな、お前が境界を実感することになるのは」
唐突に放たれたその言葉の意味が分からなくて首を傾げる。
分からないことさえ表明したら解説をしてくれるので、そういう意味ではとても楽だった。
これ以上、変に頭を悩ませないで済むというか。
「自分と他人との間に流れる、時間の境だ。」
よく分からなかった。時間とは知らぬうちに流れるものでないのか。
気付いたら過ぎていて、取り返しのつかないものが積み重なって、その中で時の流れなど気にしている暇はなかった。
ああ、けれど。
積み重なる時の重さに心を凍りつかせたひとの悲嘆なら、よく知っているのかもしれない。
それとこれとを同一視したいとは思わなかったけれど。
「それは、楽しみにしていいことなのかな」
「どうだろうな。感じ方は人によると思うが、私は、この上置き去りにされるのを楽しいとは思わなかった、か」
「あー……」
そういう話になってしまうのだとしたら好ましくない。
けれど一方で、置き去りにされるのに時間の流れなど関係ないじゃないかと思った。
「置き去りは、あんまり好きじゃないかなあ」
関係ないまま置いていかれて、今でもあのひとを待っている。
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