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21.それだけ


 あつい。
 頭の中で血がぐるぐると巡って今にも破裂しそうな圧迫感。なの空腹にがらんどうの身体は寒くて吹きつける風が降り注ぐ雨が凍えるようで、いや実際に凍えているのか、吐息ばかりが熱くて膝が震える。血が回る。熱は回らない。
 折れそうな脚を叱咤して縋る。何に? 何かに。そこにあるものに。何でも良い。掴まらないと立っていられない。立っていられなければ倒れるしかない。倒れたら立ち上がることなんてもうできやしない。立ち上がれないのなら死んでしまう。
 死にたくない。
 だれかと声を張る。そこに誰がいただろうか。誰もいなかったかもしれない。最早それすら認識できない。水滴の冷たさも響く轟音も聞こえない。
 だれか、お願いです、どんな端金でも構わないから、どうか。

 ――オレを、買ってください。



「飲めるか?」
「ん……」

 差し出された水を一口飲む。熱で朦朧とした意識に冷たい水が染みて、けれどさっぱり醒めそうにはない。
 コップに添えられたひとの掌をこんなに近くでゆっくり眺めることは今までなかったような気がして、嬉しいような今更なような、そんな気分で眺めていた。
 触れられていることが貴重で、どうにもそれに落ち着かない。

 伸ばしてばかりの掌だったから。

 そうしているうちに水も掌も取り上げられて、布団を掛けられて寝かされる。
 何も言えぬままに眺めていると額にタオルを乗せられた。掌よりなお冷たい温度、なのに身体がひどく熱い。

「……だんなぁ」
「どうした」
「あつい……」
「熱があるからな……」

 呼びかければ声が返る。それが嬉しいのに目が回る。嬉しくて? 嬉しいから? そこにいることが。傍にいることが嬉しいからこんなにも熱いのだろうか。
 であればいつだって熱くてもいいのに。苦しいけれど。苦しいだけで済むならいい。寂しくなければそれでいい。
 そんなことは絶対に言わない。

「……」
「旦那……?」
「いる。気にするな」

 また手が伸びる。何かと思ったら額のタオルに触れて、肌には触れられずに終わってしまう。遠ざかる。
 留められようはずもない。ただタオルの清涼感は気持ちがいいから、それに甘んじて息を零した。あつい。



 そもそもがどうしてこんなことになっているかって、水を吸った服で極寒の外を徘徊すれば正常な身体の持ち主は当然の帰結としてこうなるわけである。
 家主と話を終えて戻ったあたりから意識がなくて、久しぶりのせいかと思う暇もあまりなかった気がするのだけれど、どちらにせよ目覚めたときは布団の中だった。
 昨日の今日でいきなり迷惑を掛けてしまったようで申し訳ない。愛想を尽かされなければいいのが。

 その彼は水浸しになった自分の部屋にはまだ戻れないのかこの部屋にいて、ペンを走らせる軽い音が耳に届く。
 それが妙に快くて、いちいち呼びつけるのも申し訳なくて、熱のこもった息を吐いて瞼を落とした。



『ああ、起きたか』
『……』
『なんとか言え。目は見えてるんだろ?』
『……ん』
『じゃあいい。水差しはそこ。お前用だ、適当に飲め』
『……』
『いちいち黙るなよ。……まあいい、寝てな』



 手を伸ばす。
 節くれ立った手首はいとも容易く掌に収まった。
 そうして改めて安堵する。

「なにか欲しいのか」
「……なにか」

 欲しいもの。緩慢な思考回路で考えて、それを言ってはならないと悟った。
 鸚鵡返しの形のまま、言葉の代わりに熱を零す。

「腹でも空いたか」

 そんなような気はするけど、それは別にいいと思った。首を振る。
 収めた手を引いて、冷たい皮膚に頬を寄せる。
 ここにいる。触れられる場所にいて、逃げることも離れることもなく、傍にいる。
 繰り返し、繰り返し。幾度と無くその確認を重ね安穏に身を浸す。
 目を閉じる。眠りに落ちる。

 あなたがいる。



『はい』
『……?』
『パン粥だよ。腹空いてんだろ』
『パン粥……』
『あんだ、文句でもあるか? 粗末で悪かったな』
『……そういうのは、別に』
『大人しく食ってろ』
『……』
『……ん? 何?』
『……おいしい』
『そっか』



 気が付いた時にはもう随分と暗かった。
 相変わらず熱さに頭は回って、身体は重くてだるくて、そして相変わらずそこに掌がある。
 視線を上げれば、捕まえたままの彼がいる。

「……だんなだ」
「どうした」
「……えへへ」

 思わず表情が緩む。だって寝てるんだから簡単に振りほどけるはずだ。
 でもまだここにいるのだから、それはここにいてくれたということだ。
 捕まえてたってなんだって、傍にあなたがいるということだ。

 掌に頬を預けて目を伏せる。人肌の暖かさに身を寄せる。
 どうしようもなく心が安らいで救われる。充たされたような気持ちになって慰められる。

「気分は悪くないようだな」
「ん」

 旦那いるから。
 頷いてまた笑顔になって、隠すでなく掌に触れる。恋しがるみたいに繋ぎ止める。

「……そうか」

 そうだ。
 あなたがいるから。あなたがいれば。
 それで生きることだってきっとできる。
 それで生きることしかできなくなる。

 それを空虚なものと知って。
 追い掛けた先、目端を掠めた光る魚は、今や。



「……ね、旦那ぁ」
「どうした」
「……どっか行っちゃったりしない?」
「……ここにいるだろう」
「……うん」

 頷く。思考を留める。
 全部どうでもよくなるし、どうでもよくしてしまう。


「傍にいてくれるなら、いいやぁ――」


 それだけでいい。
 それだけでいい。
 それだけでいい。


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