足元に温かく可愛らしいウサギの重み、吹き抜ける風の爽やかな草木の薫りに、柔らかく紡がれる歌声が澄み渡って心穏やかだ。
月並みな表現を幾らでも重ねられるくらいに優しい時間の中で、クテラの唄に耳を傾ける。
「あ、えっと……こ、こっちの姿では初めまして、とか……」
「あーっと……クテラ……だよな?」
待ち合わせ場所に顔を見せたクテラに見慣れないモノが生えていたときは流石に驚いたけれど、耳や尻尾が生えてたってクテラはクテラだった。
三段に重ねたアイスに目を輝かせる一方で手元が危なっかしかったりとか、でもそんな心配も吹っ飛んでしまいそうなくらいに嬉しげだったりとか、色んなお店のショーウインドウを覗き込んではうきうきとした表情を浮かべていたりとか、二人で吟遊詩人の唄に聴き入ったりだとか、色んな昔話や思い出話をしてくれたりとか。
握る掌が暖かくて柔らかくて、くるくる変わる表情が眩しくて、そういう全てが変わらずにクテラだったから、何も気構える必要なんてなくて、特別なことだって必要なかった。
ただこのデートを楽しむことができればそれでよいのである。
そうして最後の仕上げとばかり、ハイデルベルグ郊外の牧場を訪れる。
動物好きのクテラでも馬に乗るのは初めてだったらしく、緊張する様子が微笑ましく可愛らしい。大丈夫、と馬を先導しながら声を掛けて、
『――そう緊張するな、ロジェ』
それに僅かのフラッシュバック。
馬鹿馬鹿しくて少し笑えた。
「……ロジェさんは、色々なことが出来る人だなぁって思ってたけど、お馬さんの扱いまで得意だったんですね……」
「んー? 実を言うとね、俺は今、割と何にもしてないんだよ。ちゃんと躾けられてる馬は、すごく頭がいいからね。俺は手綱もって歩いてるだけで、それで馬の方が『あ、こいつについて行けばいいんだな』って判断してくれるから」
「えー!? じゃ、じゃあ、別に訓練とかしなくても、誰でもこういうことって出来ちゃうんですか……?」
「気を付ける所はいくつかあるけどね。驚かせないようにしないといけないし、引くところはちゃんと手綱引かないといけないし。でも、基本は馬のサービス精神に甘えてる感じかなぁ。馬主さんの仕事がしっかりしてるんだね」
嘗ての自分も固まって狼狽えて、そうして穏やかな声に励まされてなんとか落ち着いたんだったか。
馬に乗ることに剣術の稽古、礼儀作法やダンスのステップの踏み方。そういった技能や立ち振舞いを身に付けることは別に嫌いではなかった気がする。少し目まぐるしくはあったけれど真新しいことも多かったし、何かを学ぶことは純粋に楽しかった。気にかけてもらえることが喜ばしくて、教えを吸収することで褒めてもらえることがたまらなく嬉しかった。
それら全ての彼らの行いを無為にしてしまったかもしれなかったけれど、自分にとっては無駄にはなっていないから。
馬を降りたなら後はもう気楽なもので、貰った餌を片手に牧場を回る。
様々な動物の中でも特にウサギが好きらしいクテラは、切り株の周囲で餌に群がるウサギたちに囲まれたり戯れたりと大変にはしゃぎ回っていて、ああ、よかったなあ、と思う。
喜んでもらえてよかった。
「……この子、寝ちゃいそう……」
「ああ、良かった。安心してるんだね、きっと」
うとうとと膝の上の特等席で目を細めるウサギを撫でてやりながら、クテラがふと調べを口遊む。
静謐で曖昧なその入りの中から、はっきりとした旋律と歌詞とが現れて、その響きに耳を慰めた。
「……子守唄?」
「えと、そういう訳じゃないんですけど……街で、吟遊詩人さんが歌ってた曲……」
そういえば、と思う。あれをその場で覚えてすぐここで歌ってみせるのだから、クテラは純粋に歌うことが好きなのだろう。
教えに縛られて恥ずかしく思ってしまうところがあったとしても。こうして新しい歌を誦することが出来るのなら。
「ロジェさん、歌とか、オシャレとか、流行ってるもの詳しそうだから……覚えるなら、一番新しそうな歌がいいなぁと思って、教えてもらったんです」
――歌を、聞かせてもらうという約束だった。
発端はそれで、でもこんな立ち話のついではいくらなんでもという話になって、だからじゃあデートのときにって、元々はそういう流れだったのである。
そうして律儀にその約束を守り、クテラは歌を歌っている。
それはこの上なく嬉しいことだった。約束を守ってもらえるのはいつだって嬉しい。
縛るのでなく縋るのでなく、ただふたりの間の取り決めとして、委ね交わしたことが実現する。
それは何より幸せなことだと感じるから。
一曲歌い終えたクテラと目が合えば笑い返して、今度はこちらが口を開く。
クテラのそれと違い、新しい歌ではない。ずっと昔に教わった懐かしい歌。母の胸に抱かれて、ふたりで歌ったエルフ特有のうた。柔和に自然を言祝ぐそのうたは、ロジェにとっては珍しい、母の愛というものを想起できるそれだった。象徴であるとすら言っていい。
他に思い浮かべられるものは最早残っていないのだ。ロジェ、と、呼び掛けられた声の残骸が、胸の奥では響くけれど。
それでも1つだけでも、身を委ねられるものがあればよかった。
伝え教えられた貴いものが存在するのならよかった。
(――あ)
歌を紡ぐ。ウサギたちを驚かすことのないよう、巡るマナを呼び起こすことのないように
和やかな時の中でウサギに触れながら視線を巡らせ、声に耳を傾けてくれていたクテラが、ふと後ろを振り向く姿が目に入った。
空に投げられた視線が彷徨ったのは一瞬のことで、だけど何を探しているかなんて一目瞭然だった。
別に気を悪くすることはない。デートとは銘打っているけれど、クテラと自分はそういう仲では全くないし、クテラがいざという時に頼る先といったらナインだ。それは当たり前のことで、妬みや嫉みなどが介在したりしない。
むしろ、ここで覚える感情は、そう。
(なんで、いないんだろうな)
共感、寂寞、同情、憤り。
そういう諸々の全てと重なり、けれど全てと食い違う。
ここにいないひとを探すときの仕草をよく知っている。
見出したのは既視感ではなく幻影。他ならぬ自分自身の過去の幻影。
――むしろ、今の。
勿論彼は逃げ出しただとかそういう事では決してなく、彼なりに許可を、休暇を得てクテラの元を離れている。それは責められることではない。どころか当たり前の行為であり権利であるとすら思う。
罪人――だということになっている彼に、それが適用されるかどうかは知らないけれど、少なくともクテラ自身がそれを逆手に取って何かを強要することなど有り得ないのだから。
だからこれは自分の勝手な反発だ。理不尽な苛立ちを溜めている。
だとしても、この子が求める先に彼がいない事実に一方的に腹を立ててしまう。
視線が宙を掠める空虚さを知っている。手を伸ばしても届かぬ寂寥を知っている。
余計な感情移入にひどいお節介だ。嫌気が差す。
例えばこういう時に、その寂しさを和らげる方法だとか、傍にいて欲しいひとに傍にいてもらう方法だとか、そういうものを知っているのなら教えられた。
そうして満足と安穏を得て笑うための術を自分が得ていたなら、それでクテラを慰められたかもしれない。
でも知らない。
乗馬の作法や、歌の歌い方は教わった。大切なひとから教わって、遠い今も胸に抱いている。
デートで誰かをリードする方法とか、ひとを喜ばせるためにはどうすればいいか、そういうものは自ら学んだ。生きるために必要なことだった。
でも知らない。
大切なひとの留め方を知らない。
ひとを愛して、愛されるための心得もない。
中途半端な距離を保って歌を紡ぐ。
誰を祝福するでもないこのうたが、せめて無聊を晴らせるようにと、ただそれだけを密か願った。