握り締められ引かれる胸元、合わせた瞳に挑みかかるような覚悟。
まずい、と思った。
これはそういう行為ではない。
重ねた唇の柔らかさはまだ年若い少女のそれで、ただただひどく熱かった。
「……突っぱねられるもんと思った」
「――あたしが、びびって押し退けると思った?」
顎に添えた指を頬へと滑らせ軽く撫でる。見返す視線は変わらぬまま、胸に寄す掌も離れぬままに。
囚われたかのように近い。
「ふふん、そんな柔な根性、あたしは持ち合わせちゃいないのさ」
そう彼女が得意気に言うものだから、諭す言葉など持ち合わせなかった。
頬を触れた掌は耳をなぞると再び顎を首を撫で辿り、視線を下げた先、掴まる小さな手を包み込む。
引き留めるかのようなその指を解いて、戯れのようにキスを落とす。
そうしてその熱い手を放す。
手放す。
手放させる。
「もうちょっと、身持ちが固いもんだとね」
「その程度で、すぐに気変わりするくらいなら、元より彼女になろうだなんて言わないよ。堂々としろって言ったのは、あたしだもの」
気が変わってもいいのだと、そう語り聞かせるには掌に残る温もりが強すぎた。恋など。そんなものは移ろうものだと。柔な交わりではないと、意地を張る必要はないのだと。
自分の芯を楔に貫かれて尚、それだけは自由を許されるというのに。
「ふうん」
手放した。
手放せない。
そこにある暖かさに惹き付けられそうで、ステップに似た所作で距離を取る。
揺れ跳ねたマフラーが孕んだ熱を吐き出してはためいた。
「堂々としてみようかな?」
一定の距離を保ってやっと、受諾に似た言葉を漏らす。
この距離なら大丈夫。根拠などなく感覚で探る。
「ほら、随分と元気になったじゃん。……いいよ、堂々とやってみな。あたしなら潰れる心配なんていらないからね」
何やら手元に視線を落としていた彼女は、声をかけられたなら顔を上げて笑う。
交錯したそれは空に浮いたように不確かに思えた。
あるいは、そちらの方が健全か。
「光栄に思いなよ?」
浮わつくほどが丁度いい。
揺れ動くほどが丁度いい。
どうしようもない恋慕に身を浸して沈むならば。
その想いばかりはひどく貴い。
「ところでさ、知ってるか? セレン」
そして振り返り彼女に向き合う。
うわべばかりは軽やかに。
「オレ、宿の女主人と寝てんの」
放り投げた言葉と笑顔が、彼女の瞳に映って歪んだ。
何を吐いただろうか。
どこまで吐いただろうか。
「――そのくせ、一番言いたいことは言えない癖にさ」
突き放すようその言霊ばかりが、胸の奥を穿っている。
「ロジェは旦那と寝て、引き止めておこうって、思ったことはあるの?」
「まさか。そんなんで引き止められるひとじゃないよ」
「よく分かってるじゃん」
堂々巡りに言葉を交わして、横たわる溝の深さを再確認する。
そうして飽かれて突き放されれば。そうなってしまえば取り残されてまたひとりだ。
それが怖くて、けれど引き留めることなどできやしない。
「でもさ。宿の主人と寝てるって話、旦那にばれたら、旦那は許さないんじゃないの?」
「セレンはばらすの?」
「ふん、どうだかね。……でもさ、ばれないはずないじゃん こんなことしてて」
「上手くやるさ。慣れてるんだ」
「ふぅん……」
引き寄せることはできない。これはよくない関係だから。
突き放すこともできない。ひとりになるのが怖いから。
「ま、あたしも、だからと言って、離れる気は無いけどね」
このままでいることが最善である筈もない。
「そっか。じゃあ大丈夫だな」
このままでいること以外に手段を持たない。
「んー、でも……その女将さんと寝るっていうのは、やめてもらうことにするけどね」
「だめ?」
「だってさ、何も変わんないじゃん、ロジェ。……そーやって裏でこそこそする態度が、気に入らないって言ったでしょ」
であれば彼にもそのことを告げろと、暗にそう諭される。
それが叶うのなら、そもそもこんなことは必要ないのだけれど。
宿の主人を懐柔する必要がないのなら、ふたりで新しい宿を探せばそれで済むのだ。
それができないから。それが叶わないから。
そんな事態となれば、彼はひとり消えてしまうから。
「……男娼が大手を振って歩くのもおかしいだろ」
そんな台詞で濁して笑った。
そうだだから見放してしまえと、気に入らないのなら手を放せと、喉に詰まる言葉が苦い。
温度を埋める代わりなどすぐに見つけてしまうから、それが見つからなくなる前に、早く一刻も早く、今すぐにでも。
「どうしても続けたいっていうのなら」
痺れを切らしたセレンが言う。
「あたしなら、今度こそあの宿ごと全部燃やすことだって、訳無いことだよ」
「でも、しないだろ」
「したって別に構わないよ。あたしだって、そういう方が得意だしね」
「じゃあ――」
セレンはオレを見放すんだ。
繋ぎ止めるための言葉が重く、誤魔化す為に邪魔な髪を払った。
この金髪がもう少し目立たぬ色だったら、何か、違っただろうか。
そんなことになったらもう生きられないよ。
恫喝であり懇願でもある。止める術など持たないから、心の奥底願いに縋る。
「……結局ロジェは、あたしにどうして欲しいのさ?」
「さあ?」
「ふーん、思わせぶりに言うものだから、何か他に要望でもあるのかと思ったけど」
言える訳がない。
傍にいて欲しいもこのままに在りたいも遠く離れてと願うのも全て、それぞれが矛盾して支離滅裂なのに。
希う傍からボロが転ぼれて、何を望んでいるのかも分からなくなるのに。
「堂々としろって言うから。……セレンの前でだけは、話してみようかって思ってただけ」
結局のところこれが全てで、都合のいい相手を求めている。
都合のいい相手でないことに失望する。自分の身勝手に軽侮を抱く。
「ふーん。てっきり、あたしとも寝ろって言うのかと思ったよ」
「なんでそんなことしなきゃいけないのさ?」
「さーね、口封じ?」
「あはは」
自分でも驚くくらいには乾いた声だった。
可笑しがる動作はこれで合っていただろうか。一番恐れるそれであるのに。
「寝たくらいで口封じになる?」
「はんっ。試してみたいなら試せば良いじゃん。……あたしは引かないからね、ロジェとは違ってさ」
安堵。絶望。心が涸る。
「試すまでもないでしょ。……それに、なんかめんどくさそうじゃん?」
「ロジェは面倒くさいの?」
「ん。あんま、気は向かないんだよなぁ。セレンがして欲しいんならいいけどさ」
望まれてしまえば受け入れるしかない。
同時にそれは相手の欲求を満たすことで、それが引き留めることに繋がるのならむしろそれは快かった。為すべきを示してもらえるのはこの上なく助かる。
けれど引き寄すとして、腕が重くて動かない。傍にいたくないと願っている。
傍にいてほしいと願っている。
「そうしないと宿が燃えちゃうかもよ? 他に、方法なんて知らないんでしょ? どうせさ」
「……セレンは燃やさないよ」
「なんでそう言い切れるのさ」
当たり前の事実には今更返答など返さない。必要ない。
ただ一言、願うことだけそれをする。
せめてもと、笑ってみせて押し通る。
「信じてるから?」
信じさせてと慈悲を乞うた。
「ふん、バカロジェが。……あたしよりも、綺麗な目の色してるくせにさ」
「……それじゃあさ、これからロジェの部屋遊びに行っていい?」
「何するの?」
「遊びに。なーんか、立ち話も疲れてきたからさ」
唐突な提案に内心首を傾げる。
わざわざ自分の部屋に来るよりも、街を回ったほうが見るものもあるし楽しいだろうに。
それを疑問をそのまま伝えたところ、セレンは首を振って。
「いいよ、その女将さんの顔も見てみたいし。……それに、誰かの部屋って、遊びに行ったことないんだ。あたし」
納得はしないでもないが、気が進む訳でもない。顔を見たところでどうなるとも思えない。
ただ強硬に拒むのもおかしい気がして、少し考え込んでから彼女への距離を詰めた。
身を折る。身体を近付ける。
同じ目で見返されて、踏み外した足元を再確認する。
そして容易く落ちるだけ。
沿うた掌で顔を上げ、重ねた唇を今度は深く。
辿る先が昏く濁って粘ついて、安易に触れれば融け合い絡み、腐り落ちるような錯覚。
もしくは自覚。
許容を示して詰められた一歩に、鎖の重さを以て心を括る。
離した間を繋ぐ糸が途切れ垂れ落ち消え失せても、その拘束は消えやしない。
瑣末を気にかけるな放り捨てろ。とびきり笑顔を零してみせろ。お前にはそれしかありはしない。
他に方法など知らないのだから。
「じゃ、これが口止めってことで――」
三度口吻。彼女から。なぞるかのようなその様が痛ましい。
拒まず委ねて好きにさせる。
熟れていく。
膿んでいく。
どうしようもなく爛れていく。
「これでおあいこさ」
「……口止め、なくなっちゃったら困るんだけどなあ」
虚ろを嗤え。諧謔を蔑め。
一番に伝えたい言葉など錆び蝕まれて朽ち果ててしまえ。
一度ばかりの過ちを、自分は二度と繰り返しはしない。
一度ばかりの過ちに、自分を決して赦しはしない。