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24.堂々巡る


 薄明かりの中、穏やかな談笑の声が響く。透き通った液体を注がれグラスの氷が揺れた。
 酒を注ぐバーテンダーと向かい合うカウンター席、甘い筈のチョコレートカクテルが妙に苦い。
 彼が差し出したグラスを受け取る同席者――アルド・レイオンに、沈んだ声で問うた。

「……そんなにひどい顔してた?」
「あれが元気に見えるとしたら、余程目が悪いんだろうな」

 何があったが知らないが。彼がグラスを傾ける。
 積極的に他人を飲みに誘うタイプには見えなかったが、その彼が街先で偶々顔を合わせただけの相手をバーに誘う程度の顔をどうやら自分はしていたようである。
 旦那に見られなくて良かった、と甘い酒を煽って溜息。最近あまり顔を合わせていないから。
 それでもまだ宿を出てはいないようだから、その事実そのものには安心していられる。
 繋ぎ止めていられる。

 繋ぎ止めていいのかも分からない。
 彼も彼女も。
 ただひとに傍にいて欲しい。ひとりはいやだ。
 あなたの傍にいたい。あなたが傍にいてほしい。

 遠くに思いを馳せてから近くへ思考を移し、酷く落胆する。誰に。自分に。

「……なんか、間違っちゃったような気がするんだよなあ」



 手段を間違えた。
 気付かず踏み外した。
 脳裡を過ぎるいつかの追走を、慌てて無理矢理振り払う。

 そして瞳に落ちる、いつかでない彼女の姿。

 氷とグラスの触れる軽やかな音に、続きを促され口を開く。
 例えば、と。

「それなりに親しい相手が、なんか明らかどっか間違ったような道突き進もうとしてたとしてさ」

 誰のことかなんて知りゃしない。

「でも、それをやめろって言ったら離れられちゃいそうな気がするんだ。近くにはいられない、っていうか、距離を取られる、っていうか」

 それが誰だか知っている。間違えたのは誰で間違えているのは誰か。
 胸に深く伸し掛かる事実はいつだって瘧のように煩わしい。

 ふうん、と彼の相槌。テーブルが指を打って僅かの後。

「そいつはまた、対処に困る悩みだな」
「……やっぱり、難しいかなあ」

 次の杯を求める彼を横目に、自分のグラスはなかなか減らない。どうしようもなく苦々しくて、何にも口を付けられそうにない。
 視線が落ちる。

「嫌われんのはやなんだけど。でも、間違ったままじゃ駄目だし」

 でも嫌われるのはやだ、と、これが駄々でしかないことは承知している。
 自分には手が二本しかない。欲張っては掴んだものを落としてしまうことだって知っている。

 けれど一つだけを目指して手を伸べても、届かずすり抜けることもある。
 触れた筈のものがそこにはなかった。掴んだ感触は幻影。
 嘲笑うように頭の中を巡り巡る一度きりのリフレイン。

 あいしてる。

「そりゃあ、どっちか選ばなきゃいけないんだからな。止めるか止めないか」

 聞こえた正論が響き渡るものを一度途切らせる。
 耳に痛い筈のそれが心地よいのは、苛む言霊の方がずっと痛いからだ。
 そこから目を反らせるならば自傷行為など安い対価で。

「ついでに期限付きか。胃の痛い話だ。おまけに自分で決めないと意味がない」
「意味がない」

 反芻。意味を問う。
 首を傾けて彼を見る。

「――自分じゃないと、意味がないの?」
「別に、他の奴に任せたりしてもいいけどさ。いるなら。どんな結果でもそれで納得出来るなら、の話だけど」
「………」

 自分で決める意味を問うておきながら、他人に任せるという発想はなかった。
 実際他人に任せられる問題でもない。こんな腐れた沙汰。
 色恋ですらない昏いばかりの、決定的に食い違った。

「……誰かに任せられることじゃ、ない。と、思う。でも――オレが何したってどうにもならない気はする」

 これは嘘。
 突き放してしまえば、愛想を尽かされてしまえばそれで終わる。
 それができないから自分自身がどうにもならない。



 何も捕まえることなどできない。

「……オレはさ、ただ」

 頭が重くて項垂る。

「傍に誰かがいてくれるんなら、それでいいんじゃないかって思ってたのになあ」

 沈黙。
 自分の声がいちいち重苦しく忌々しい。

「……ままならないな、世の中ってのは。思い通りになんて行きやしない」

 結局のところそうなのである。
 思い通りに行った事なんてありやしない。あったところで記憶に留まらない。
 嫌なことばかり累積して涙跡を残す。
 滲むのは後悔だけで前になんて進めやしない。
 とうに納得したはずだったのに。

「……でも、やっぱりなんか、しんどいやぁ」

 重い頭を掌で支えて、自分の体温の筈なのに妙に熱い。
 なんでうまくいかないのかなあ。誰にともなく呟く。

「さあ、な。……もしも全部、上手く行くなら……」

 その言葉は途中で途切れた。追求することも出来ぬまま、違う続きを続けられる。

「……何にしても、選ばなきゃいけないんだろうな、お前は」
「んー……選ばないでこのまま、はだめかなあ」
「俺は向き合うことをおすすめするがな。決めるのはどうせお前だし」

 突っ伏して視線を向ければ、肘をついて彼がこちらを見下ろした。目が合う。
 語り聞かされるような気分ですんなり聞き入れてしまう。

「逃げたければ、逃げてもいいんじゃないか」

 逃げる。逃げても。どこへ逃げた。逃げた先からもまた逃げた。
 そうしてまた逃げるのだとしたら。

「どこに?」
「さあな。どこにしても、いずれ行き詰りそうだ」  

 そんな風に言う彼の瞳は透き通って冴え冴えと冷たい。
 それを不快とも恐ろしいとも思わなかった。もう行き詰まってるかも。甘え戯れにへらへら笑う。
 視界が回る。



「アルドさんは、なんかそゆー……困ったりとかー、したことないの?」

 聞いてばかりにしても自分のことばかりだったから、なんとなく気分を変えたくて水先を向ける。
 彼が話したがらないならそれで良かった。ただ無性に、何か話が聞きたかった。
 どんな話でもいいから。自分に直接関わらない話を。

 帰ってきたのは深い溜息と暫しの沈黙。
 悪いところに触れただろうかと申し訳なくなったあたりで彼は口を開いた。
 視線を上げて目を眇める。

「何回もあるよ。……悩んだこともあるし、後悔もしてる」
「…………。……そういうとき、どうしてた?」
「出来ることをやってたと思うよ。気付いたら手遅れ、だけは嫌だからな」

 ぱきり氷の割れる音。後で自分も残りを飲み干さねば。つらつら関係ない思考が回る。
 けれど目の前、見たくないものは瞼の裏に。
 忘れるなと警告される。

「……できることをしたらさ、やっぱり寂しくなりそうだけど」

 それでも仕方ないか。なるべく軽く言ってみせた。

 できること。突き放すこと。
 受け入れないこと。温もりを放すこと。
 諦めて傷付けてしまうこと。

 それでも今のままより、ずっとマシだとは知っている。

「……親しい奴が間違った道に進むのは、嫌だからな。何もしなかったとしても、俺ならそいつと一緒にいられなくなる気がする」
「間違った時点で、もう駄目かあ」
「引き戻してやれるなら、それが一番いいんだろうけどな」

 そうだよなあと納得して、もうこんなの笑うしかない。
 傍にいてくれるならと試してみせたのが最初の間違いだった。
 踏み出した一歩が落とし穴。転げ落ちたらそれで終わり、だから既に破綻している。

 しんじてたあなたをうしなったときだって。

「……まあ、これは俺の話だし。お前も悩むだけ悩んで決めるといいよ」

 そう締めくくった彼の掌が、突っ伏した頭の上に置かれた。
 温かい重量に瞼を伏せる。接触は好きだった。心を安らげてくれるから。そこにひとがいる何よりの確認になるから。
 ただそれだけの話だったのに。



「……オレさぁ」
「……何だ?」
「ハイデルベルクには、戻ってきてよかったなぁ」

 笑う。これは本心。

「色んなひとには会えたし、話とか、できるし聞いてもらえるし、いっしょにいてもらえたりとか、するし」

 本当に色んなひとに会えたと思う。何も気負わず屈託もなく、笑っていられるなら、それがこの上ない幸せで、そういうことがずっと続いて、ずっと誰かが傍にいてくれればいい。誰かひとりでも傍にいてくれればいい。
 そういう安心感に包み込まれることができれば、少なくとも息をしていられるから。

「……ああ、そうだな」
「でもさ」

 それだけのいいことが積み重なる一方で、他にも蓄積するものがある。
 どうしようもない。忘れられない。身体に心に纏わり付いて離れない。
 そういうものに、もう。

「やっぱり――ちょっと、疲れちゃうや……」

 笑顔だけは崩さないまま、そう力なく零した。

「…………ん。――――」

 相槌が聞こえる。何か言っているのが聞こえる。
 頭を撫でる掌が優しくて温かくて快い。全て委ねてしまいたくなる。
 夢を見るような心地で、そのまま意識を深く沈めた。





 ふ、と唐突に意識が浮上する。
 急に目覚めさせられた割には、どうにも頭の中に靄のかかったような感覚がして落ち着かない。
 掌の感触を見失って視線を上げれば、隣には誰もいなくて瞬きする。
 見回してみれば隣だけではなく、バー全体にひとがいない。

 かなり長い間眠っていたのだろうか。全体的に雰囲気が様変わりしたような感じがする。
 アルドは先に帰ってしまったのだとしても、バーテンダーすらいないとはどういう事だ。
 訝しんで再び視線を巡らせば、

「おはよう。気分はどうだい」
「……え?」

 その逆側から声がして振り返る。
 店のバーテンダーがそこにいた。カウンター越し、先程一瞬確かにいなかった筈なのに。
 気付かなかった? 見落としていた? そんな筈はない。この至近距離でまさか。
 まともな問いすら発せられないまま彼を見る。

「あははは、そんな驚かなくてもいいのにね」
「え、と――何が? 何に?」
「むしろこっちの台詞だよ、それ」

 可笑しげにくすくす笑われ、それからぐいと顔を覗きこまれた。
 淡い碧眼と瞳が合って、その深い色に見通される。
 見透かされる。本能的に思って身体を引きかけたところに手が伸びる。

「大切なものなんてとっくにある/ないくせに。何にかまけて何を失うつもりなんだ?」

 胸元。
 鎖を通して揺れるリング。
 指先で捉えられ力任せ、ぶちりと鎖が切れる。

 不意を打たれて思考も反応も完全に遅れた。
 けれど立ち尽くしてばかりもいられない。それは。その指輪は。
 それだけは。

「ちょっとアンタ、一体何し――ッ!?」

 状況が読めないが関係ない。
 狼藉を働いた彼に掴みかからんと身を乗り出して、

 なぜか足がすり抜けた。

 踏み抜いた感覚もないのに深く呑まれて、もう一方も当たり前に沈む。
 最後に覚えたのは、とぷり水面に落ち込む錯覚だった。


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