身体が深く沈んでいく。
伸ばした手が空を切り、口から空気が零れて上がる。
不思議と苦しくはない。澄み渡る視界の碧、昇る気泡に逆らうように雪が降り積もる。
それとは違う緩やかさで、身体が落ちていく。
なんだここは。
「――ようこそ、水葬へ」
こぽり。もう一度気泡が浮く。
それから碧の中、見覚えのある碧の中、こつりと足を踏み出す姿。
知らないひとだ。そう思った。
「ああ、喋れるから大丈夫だよ? ここはそういう風にできてるから」
「……っ、あ」
声が漏れた。同じように空気もまた。
なのに喋れて息ができて、一体ここはなんなんだ。
「言っただろう、水葬だって。それ以上でも以下でもない」
「水、槽……?」
「んー。ちょっと違うかな」
詰め寄られる。距離感が希薄な中で微笑む顔が近くて、水に揺らいで雪が降りる。
掌で頬に触れられる。温もりはない。氷に似た冷たさ。
それが全身を蝕んでいることに、今更気付いて息を呑んだ。
いきがあがる。
「……あんたは、一体」
「あー、オレ? そういえば名乗ってなかったね」
ぱ、と肩を押されて身体が後ろに傾ぐ。突き放されたような感覚。
反射的に手が伸びて、それは再び空を切った。
遠ざけながら彼が言う。
「『背信』空花水葬」
声は囁かれるよう、耳元で響く。その感じが気持ち悪くて耳を塞いだ。
「――覚えなくていいよ。どうせ忘れてしまうから」
それなのに。それなのに、滑り込んでくる。
拒めない。何一つ自由になんてならないのだと分かる。
示された答えに似た異物は、何ひとつ身体にも頭にも馴染まない。
「……さっきから、何言われてるか全然分かんないんだけど。結局何がしたいんだよ、一体」
いい加減募る苛立ちを自覚してきた。訳も分からず引きずられて相手の意図も意味も分からず、ただ翻弄されることに憤りを覚える。
それに、そうだ、奪われたものがある。大切なもの。捕まえようとして、それで。
睨む視線を軽く見返され、それが更に腹立たしい。
「ところでさ」
けれど自分の様子などどこ吹く風。
彼は腰に手を当てて考え込むような素振りののち、ぴらり白い封筒を取り出して揺らした。
「手紙は、ちゃんと投函しないとダメだよ?」
「それは――」
遡る前。記憶を辿る前。脳裡を過ぎるそれを捕まえる前に、
「――ッ!?」
肩が。
碧く冷たいこの世界で初めて感じた灼熱が、痛みであることに気付くまで少し時間がかかった。
貫かれた。深く食い込む氷の冷たさと走る痛覚、深く食い込んだそれに縫い止められる。
背後には何もなかった筈なのに。見回しても世界は碧く澄み渡るだけだった筈なのに。
けれど縫い止められた、それだけは確かに理解できた。
「――ここはオレの水葬だから」
「ぅ、あ……ッ」
全てを見透かす水鏡でもある。語る彼が近づくごとに、肩が、蝕む氷が広がる。
貫いた右肩を凍り付かせ、結晶となって身体を覆い、皮膚を切り裂いて歓喜に割れ落ちる。その端から無限に生え揃う氷華が血を纏って赤い。
細かな花弁は鋭く光り、獰猛な獣の牙を連想させた。
また頬を触れられる。冷たい指先。爪に這われて頬が切れる。
「君の大切なモノって一体なんなんだ?」
「指輪? 手紙? 傍にいてくれるひと?」
「――もう、既にいないひと?」
身体が震えた。
応じて氷がまた落ちる。足元に華が咲いて、隙間を埋めるようにまた結晶が皮膚を食い荒らして蝕む。ずたずたに裂かれた腕が悲鳴を上げている。
けれどそれより、問いが刺さる。
「……大切な、もの……?」
「そう。何を置いても守りたいもの。何よりも貴く思うもの」
「それが一体――く、ぁ!」
氷樹が伸びる。腕から胸へ。
苦痛に反駁の声が途切れるも、結晶は無機質に容赦も知らず。
ただ侵食を広げていく。痛みに身体を震わせれば、その分傷口が裂かれて開く。
鋭い疼きに思考能力を奪われて、ただゆるゆると首を振った。
氷華はその首すら引き裂き輝く。
「……」
その様子を、世界と同じ碧に見透かされている。
「何を躊躇うんだ? ロジェ・カートリッジ」
「……ぅ」
呼ばれた名に縛られる。名乗れないのに声でなぞられ、心が揺れる。
何故、と煽るような声音で問いが重なる。
「大切なひとがいるんだろう。胸を張ってみせろよ。快哉を叫べ。世界に示せ」
そうして緩か、突き付けるような笑み。
「そうでなければ、裏切られてしまうよ」
その意味する裏側は、
だから裏切られてしまったのだという哀惜だった。
あはれみに花が咲く。席巻するのは問いばかり、成立しない答えが喉を凍らせて花になる。
氷に塞がれ息ができないはずなのに苦しくない。
どうしようもなく苦しい。痛くて冷たくて凍えるようだ。
こんな光も何も届かないような暗い世界で。
澄み渡って碧いくせ、目の前の姿は見えるくせ、最早ここは途方もなく昏い。
誰の手も届かない。すくいあげようにも叶わない。
すくいあげられようにも叶わない。
そういった寂寞の絶望。
ひとり眠ることが許されるなら、それはあるいは恬淡の安穏。
そんなことは許されないのだと、高ら鮮やかに嗤う背信。
「……なん、で」
「?」
至近距離。碧い瞳を丸めるその所作も近い。
探るような視線に抉られて、縛り付けられた胸元が軋む。
悲鳴は喉に堰き止まり代わりに零れるのは掠れ声ばかりだ。
こんな声じゃ誰も呼べやしない。
「そんなの、あんたに言わなきゃいけないんだ」
「へえ?」
「……だって、おかしいだろ。あんた、なんにも関係ないのに、こんな」
「こんな風に、言われなきゃならないんだよ……!」
左手に剣。握り慣れた柄が掌に馴染んで、凍えた指先に血が巡る。
痛みさえ厭わなければ咲き乱れる氷牢も枷になどならない。
華を散らして、肌を裂かせて、華を咲かせて。
振り抜かれ軌道を描いた燐光が、目の前彼の身を穿った。
血は流れない。刺し貫いた刃越しの感触が掌に、凭れ掛かる身体の重みは感じなくて、
――彼、が。
「……旦、那?」
掌から剣が滑り落ちて、それに従ってずるりと身も崩れて、纏わり付いた氷華が音を立てて割れる。
受け止めた腕から溢れる赤が襤褸のローブを染め上げる。その端から凍り付く血と身体と思考回路。零れるいのちは自分ばかりのそれなのに、刃を突き立てた身体は動かない。
華が咲く。咲き乱れて哄笑をあげる。
音のない声に嘲笑われ耳を塞ぐこともできぬまま。
腕に抱えて縋り付けど支えになどなる筈がなく、いつしか笑い始めていた膝がついに折れた。
頽れる。彼ごと。
「だから言ったのに」
耳元で囁かれて慄く。
振り返るより先に伸びてきた掌が口を塞いで耳を引っ張って、でも目は覆ってくれない。
びくり全身を竦ませた耳元、戯け謳うよう吐息を感じた。
「棄てられて」
「逃げ出して」
「置いていかれて」
いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだ、いやだ。
見開いた瞳から落ちるのは涙だろうか。それすらも自分のものでないかのよう、刺すような冷気を纏った小さな華になって、彼を自分を埋めていく。
座り込んだ足元から再び氷華が這い上がる。
抗う力など残されているはずがなくて、冷たい身体を抱いて閉ざされていく。
「――次は、殺してしまわないといいね」
憐れむようなその声に視界を遮られ、世界が暗転して意識が落ちる。
束ねるほどに軋む糸など、容易く途切れてしまう。
それが。それで断たれたことが。
絶たれてしまった方が、自分にとっては幸いだったのだろうか。
「……ジェ、おい。ロジェ」
「――」
ぱちりと目が覚める。
声をかけられ揺さぶられて、顔を上げた先にアルドの顔。
視線が合って目を瞬く。
「……あ、れ」
いつしか寝入っていたようだった。視線を巡らせば、先程よりは随分とひとが減ってしまっている。そんなに長い間眠っていたのだろうか。
「オレ、寝て……ッ」
「……大丈夫か?」
ひどく頭が痛む。ずきずきと内側から疼痛に苛まれて気分が悪くて吐き気がする。
そんなに大量に飲んだ筈はなかったのに。羽目を外すような馬鹿は今更しないし、自棄酒というには湿っぽすぎた。
「すまないが、水を貰えるか。気分が優れないようだ」
「はいはい。なんだか大変ですねぇ」
気を利かせてくれたアルドがバーテンダーに水を頼んでくれていた。快諾したバーテンダーがグラスを取って水を注ぐ。
顔を上げれば視線が交錯した。
「……すみません」
「いえいえ、お気になさらず。無理は禁物ですからね。楽にしてください」
そうしてグラスを差し出す掌が目に入って、
「……っ、は!?」
気付いた時には椅子から転げ落ちていた。
ろくに動けもしない身体が引いて、当然ながら足も縺れてひどい有様で、強く身体を打って天井を見上げる羽目になる。
世界が回る。世界が回る。
この世界は、どこだ。
「……おい、本当に大丈夫か?」
「あ、え、ぅと――」
アルドに支えられてなんとか半身を起こす。混濁した意識が乱れて、一方でひどく冴えている。
シグナルとアラート警告サイン、初めてのデジャヴに頭が揺れて眩暈がした。
身に覚えのない恐慌に狼狽が重なる。
「ほら。水でも飲んで落ち着け」
再び差し出されたグラスに今度は飛び退かない。震える両手で受け取って、流し込むように飲み下す。
涼やかに水が喉を落ちる感触に、少しばかり心が凪ぐ。
息ができる。そんなふうに思った。
「っ、はあ、はぁ……」
「……」
無言で背中を撫でられる。掌が温かい。体温があることにただただ安心する。
温もりが欲しかった。ただそれだけで、それさえあれば生きられると思って、なのに何をしても足りなくてどうすればいいか分からない。
お願いだからだれかあいしてって、
それしか望むことをもう知らない。
それだけが叶わないことを知っている。