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25.水葬の中


 身体が深く沈んでいく。
 伸ばした手が空を切り、口から空気が零れて上がる。
 不思議と苦しくはない。澄み渡る視界の碧、昇る気泡に逆らうように雪が降り積もる。
 それとは違う緩やかさで、身体が落ちていく。

 なんだここは。

「――ようこそ、水葬へ」

 こぽり。もう一度気泡が浮く。
 それから碧の中、見覚えのある碧の中、こつりと足を踏み出す姿。
 知らないひとだ。そう思った。

「ああ、喋れるから大丈夫だよ? ここはそういう風にできてるから」
「……っ、あ」

 声が漏れた。同じように空気もまた。
 なのに喋れて息ができて、一体ここはなんなんだ。

「言っただろう、水葬だって。それ以上でも以下でもない」
「水、槽……?」
「んー。ちょっと違うかな」

 詰め寄られる。距離感が希薄な中で微笑む顔が近くて、水に揺らいで雪が降りる。
 掌で頬に触れられる。温もりはない。氷に似た冷たさ。
 それが全身を蝕んでいることに、今更気付いて息を呑んだ。

 いきがあがる。

「……あんたは、一体」
「あー、オレ? そういえば名乗ってなかったね」

 ぱ、と肩を押されて身体が後ろに傾ぐ。突き放されたような感覚。
 反射的に手が伸びて、それは再び空を切った。
 遠ざけながら彼が言う。


「『背信』空花水葬」


 声は囁かれるよう、耳元で響く。その感じが気持ち悪くて耳を塞いだ。

「――覚えなくていいよ。どうせ忘れてしまうから」

 それなのに。それなのに、滑り込んでくる。
 拒めない。何一つ自由になんてならないのだと分かる。

 示された答えに似た異物は、何ひとつ身体にも頭にも馴染まない。

「……さっきから、何言われてるか全然分かんないんだけど。結局何がしたいんだよ、一体」

 いい加減募る苛立ちを自覚してきた。訳も分からず引きずられて相手の意図も意味も分からず、ただ翻弄されることに憤りを覚える。
 それに、そうだ、奪われたものがある。大切なもの。捕まえようとして、それで。
 睨む視線を軽く見返され、それが更に腹立たしい。

「ところでさ」

 けれど自分の様子などどこ吹く風。
 彼は腰に手を当てて考え込むような素振りののち、ぴらり白い封筒を取り出して揺らした。

「手紙は、ちゃんと投函しないとダメだよ?」
「それは――」

 遡る前。記憶を辿る前。脳裡を過ぎるそれを捕まえる前に、

「――ッ!?」

 肩が。
 碧く冷たいこの世界で初めて感じた灼熱が、痛みであることに気付くまで少し時間がかかった。
 貫かれた。深く食い込む氷の冷たさと走る痛覚、深く食い込んだそれに縫い止められる。
 背後には何もなかった筈なのに。見回しても世界は碧く澄み渡るだけだった筈なのに。
 けれど縫い止められた、それだけは確かに理解できた。

「――ここはオレの水葬だから」
「ぅ、あ……ッ」

 全てを見透かす水鏡でもある。語る彼が近づくごとに、肩が、蝕む氷が広がる。
 貫いた右肩を凍り付かせ、結晶となって身体を覆い、皮膚を切り裂いて歓喜に割れ落ちる。その端から無限に生え揃う氷華が血を纏って赤い。
 細かな花弁は鋭く光り、獰猛な獣の牙を連想させた。

 また頬を触れられる。冷たい指先。爪に這われて頬が切れる。


「君の大切なモノって一体なんなんだ?」

「指輪? 手紙? 傍にいてくれるひと?」

「――もう、既にいないひと?」


 身体が震えた。
 応じて氷がまた落ちる。足元に華が咲いて、隙間を埋めるようにまた結晶が皮膚を食い荒らして蝕む。ずたずたに裂かれた腕が悲鳴を上げている。
 けれどそれより、問いが刺さる。

「……大切な、もの……?」
「そう。何を置いても守りたいもの。何よりも貴く思うもの」
「それが一体――く、ぁ!」

 氷樹が伸びる。腕から胸へ。
 苦痛に反駁の声が途切れるも、結晶は無機質に容赦も知らず。
 ただ侵食を広げていく。痛みに身体を震わせれば、その分傷口が裂かれて開く。
 鋭い疼きに思考能力を奪われて、ただゆるゆると首を振った。
 氷華はその首すら引き裂き輝く。

「……」

 その様子を、世界と同じ碧に見透かされている。

「何を躊躇うんだ? ロジェ・カートリッジ」
「……ぅ」

 呼ばれた名に縛られる。名乗れないのに声でなぞられ、心が揺れる。
 何故、と煽るような声音で問いが重なる。

「大切なひとがいるんだろう。胸を張ってみせろよ。快哉を叫べ。世界に示せ」

 そうして緩か、突き付けるような笑み。

「そうでなければ、裏切られてしまうよ」

 その意味する裏側は、
 だから裏切られてしまったのだという哀惜だった。



 あはれみに花が咲く。席巻するのは問いばかり、成立しない答えが喉を凍らせて花になる。
 氷に塞がれ息ができないはずなのに苦しくない。
 どうしようもなく苦しい。痛くて冷たくて凍えるようだ。

 こんな光も何も届かないような暗い世界で。
 澄み渡って碧いくせ、目の前の姿は見えるくせ、最早ここは途方もなく昏い。
 誰の手も届かない。すくいあげようにも叶わない。
 すくいあげられようにも叶わない。

 そういった寂寞の絶望。
 ひとり眠ることが許されるなら、それはあるいは恬淡の安穏。

 そんなことは許されないのだと、高ら鮮やかに嗤う背信。



「……なん、で」
「?」

 至近距離。碧い瞳を丸めるその所作も近い。
 探るような視線に抉られて、縛り付けられた胸元が軋む。
 悲鳴は喉に堰き止まり代わりに零れるのは掠れ声ばかりだ。

 こんな声じゃ誰も呼べやしない。

「そんなの、あんたに言わなきゃいけないんだ」
「へえ?」
「……だって、おかしいだろ。あんた、なんにも関係ないのに、こんな」


「こんな風に、言われなきゃならないんだよ……!」


 左手に剣。握り慣れた柄が掌に馴染んで、凍えた指先に血が巡る。
 痛みさえ厭わなければ咲き乱れる氷牢も枷になどならない。
 華を散らして、肌を裂かせて、華を咲かせて。

 振り抜かれ軌道を描いた燐光が、目の前彼の身を穿った。
 血は流れない。刺し貫いた刃越しの感触が掌に、凭れ掛かる身体の重みは感じなくて、
 ――彼、が。


「……旦、那?」


 掌から剣が滑り落ちて、それに従ってずるりと身も崩れて、纏わり付いた氷華が音を立てて割れる。
 受け止めた腕から溢れる赤が襤褸のローブを染め上げる。その端から凍り付く血と身体と思考回路。零れるいのちは自分ばかりのそれなのに、刃を突き立てた身体は動かない。

 華が咲く。咲き乱れて哄笑をあげる。
 音のない声に嘲笑われ耳を塞ぐこともできぬまま。
 腕に抱えて縋り付けど支えになどなる筈がなく、いつしか笑い始めていた膝がついに折れた。

 頽れる。彼ごと。



「だから言ったのに」

 耳元で囁かれて慄く。
 振り返るより先に伸びてきた掌が口を塞いで耳を引っ張って、でも目は覆ってくれない。
 びくり全身を竦ませた耳元、戯け謳うよう吐息を感じた。

「棄てられて」

「逃げ出して」

「置いていかれて」

 いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだ、いやだ。
 見開いた瞳から落ちるのは涙だろうか。それすらも自分のものでないかのよう、刺すような冷気を纏った小さな華になって、彼を自分を埋めていく。
 座り込んだ足元から再び氷華が這い上がる。
 抗う力など残されているはずがなくて、冷たい身体を抱いて閉ざされていく。

「――次は、殺してしまわないといいね」

 憐れむようなその声に視界を遮られ、世界が暗転して意識が落ちる。

 束ねるほどに軋む糸など、容易く途切れてしまう。
 それが。それで断たれたことが。
 絶たれてしまった方が、自分にとっては幸いだったのだろうか。





「……ジェ、おい。ロジェ」
「――」

 ぱちりと目が覚める。
 声をかけられ揺さぶられて、顔を上げた先にアルドの顔。
 視線が合って目を瞬く。

「……あ、れ」

 いつしか寝入っていたようだった。視線を巡らせば、先程よりは随分とひとが減ってしまっている。そんなに長い間眠っていたのだろうか。

「オレ、寝て……ッ」
「……大丈夫か?」

 ひどく頭が痛む。ずきずきと内側から疼痛に苛まれて気分が悪くて吐き気がする。
 そんなに大量に飲んだ筈はなかったのに。羽目を外すような馬鹿は今更しないし、自棄酒というには湿っぽすぎた。 

「すまないが、水を貰えるか。気分が優れないようだ」
「はいはい。なんだか大変ですねぇ」

 気を利かせてくれたアルドがバーテンダーに水を頼んでくれていた。快諾したバーテンダーがグラスを取って水を注ぐ。
 顔を上げれば視線が交錯した。

「……すみません」
「いえいえ、お気になさらず。無理は禁物ですからね。楽にしてください」

 そうしてグラスを差し出す掌が目に入って、

「……っ、は!?」

 気付いた時には椅子から転げ落ちていた。
 ろくに動けもしない身体が引いて、当然ながら足も縺れてひどい有様で、強く身体を打って天井を見上げる羽目になる。
 世界が回る。世界が回る。

 この世界は、どこだ。

「……おい、本当に大丈夫か?」
「あ、え、ぅと――」

 アルドに支えられてなんとか半身を起こす。混濁した意識が乱れて、一方でひどく冴えている。
 シグナルとアラート警告サイン、初めてのデジャヴに頭が揺れて眩暈がした。
 身に覚えのない恐慌に狼狽が重なる。

「ほら。水でも飲んで落ち着け」

 再び差し出されたグラスに今度は飛び退かない。震える両手で受け取って、流し込むように飲み下す。
 涼やかに水が喉を落ちる感触に、少しばかり心が凪ぐ。
 息ができる。そんなふうに思った。

「っ、はあ、はぁ……」
「……」

 無言で背中を撫でられる。掌が温かい。体温があることにただただ安心する。
 温もりが欲しかった。ただそれだけで、それさえあれば生きられると思って、なのに何をしても足りなくてどうすればいいか分からない。

 お願いだからだれかあいしてって、
 それしか望むことをもう知らない。

 それだけが叶わないことを知っている。


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