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26.大切なもの


「何入ってんの?」

 雑然とした部屋の中で、ある種の異彩を放つ金庫だった。
 普段は布を掛けられ服の入ったバスケットを乗せられ、置物か台かという程度の存在感だったが、時折彼女はこれを気にかける。
 愛おしむような懐かしむような、そんな視線。
 自分が欲してやまないもの。

「秘密だよ」

 その視線に割り込み覗き込んでも、自分にはそれは注がれない。
 軽く笑みで誤魔化されて、えー、と不満の声を上げた。

「すげー大切にしてるっぽいから気になるのに」
「ダメダメ。お前には見せられないよ」

 しっしと掌で払われるのを無視。むしろその身体に抱き付いてやる。
 密着して見上げ、むうと頬を膨らませてみせても彼女は笑うばかりだった。

「絶対?」
「絶対」

 そして逆に顔を近づけられる。

「絶対開けるなよ。約束だ」

 約束。その響きのなんと甘美なことか。
 そう、このときの自分はまだ、約束は守られるものであると、尊ぶべきものであると疑いもせず信じていた。
 ひとを縛り付け捕らえる側面から目を逸らし、存在しないものとして埋没させてしまっていた。
 幸せな日々に身を浸し苦く重い嘗てを沈めたまま、傍にいられる幸いばかりに縋り寄る。

「……まあ、そこまで言うならいいけど」
「よし、いい子だ」

 あなたさえいればそれだけで。
 受け止めてくれる身体に髪を撫でる少し武骨な指先に、耳を擽る落ち着いた声に、そういう全てがあなたに収束して、そういう全てが他ならぬあなただ。
 そのあなたがいればいい。あなたひとりさえいればいい。

 ただそれだけを信じていた。

「ちなみに約束破ったら?」
「殺す」
「まじかよ」

 彼女の言の葉一枚一枚取り漏らさずに腕に抱えて些細なものも掛け替えなく唯一無二だ。
 だからこういう戯れだって、自分にとっては戯れなんかで終われるはずがなかった。


 あなたは去った。


 ひとり掻き集めた言葉の山に埋もれて、自分にとって都合のいいものばかり大事に掴む。
 弱々しく馬鹿らしいものだと分かっている。軽く放たれ忘れられ、流れ去ってしまったものだと知っている。
 それでもこれはあなただから。自分の中僅かばかり残された、留め置けたなけなしのあなたの断片だから。
 瑣末に約定を引っかけて、そして胸の奥に楔を穿つ。

 あなたとの約束を破りました。
 あなたの大切なものは、今、私が持っています。

 くだらぬ屁理屈とどうか笑ってくれ。
 馬鹿げた希望を蔑み嘲ってほしい。
 いくらでもいい愚かを賎しめて、こんなどうしようもない自分をどうしようもなく、滑稽なものとして軽侮してくれればいい。

 だから殺してよ。
 既に心は張り裂けている。
 あとはもうこの身を命を、すぐに引き裂いてどうかお願い、一刻も早く。

 あなたのもとへ連れていって。




「――……」

 見開いた瞳から水滴が落ちる。頬を伝ってシーツを浸す。
 見上げた天井は涙に滲んで、歪んで歪まなくても同じ白さのまま何も変わらない。
 何も変わらない。

 身体を起こしても同じまま、滴は依然零れ続けて、今日は暫く止まってくれなさそうになかった。
 目覚めたのに涙が止まってくれないのは珍しかった。今まではすぐに止まるか、目覚めたときにはすでに止まっていたのに、最近はどうにも懲りず泣き続けている。
 何か足りないのだろうか。何が足りないのだろうか。

 大切なものはなんだったろうか。

 無気味な空虚感が胸を占めている。
 もっと何か入るはずなのに、入れられるはずなのに、これ以上はもう無理なのだと悟れてしまう。
 だからだろうか。涙が止まらないのは。

「……困ったなぁ」

 今日はセレンとのデートなのに。
 このままでは待ち合わせに遅れてしまうじゃないか。




 涙が止まってから漸く支度を始めて、それで待ち合わせの噴水前にセレンの姿が認められなかったときは安心した。ひとまずは待たせずに済んだようである。
 それからは幾らも待たなかったか。時間通り訪れる火精の姿は、遠目からでもよく見て取れた。
 眩しさに少し目を眇める。

「セレンだ。早かったね」
「そう言うロジェこそ、随分早いじゃん あたし、遅れてないよね?」
「時間通りだよ。大丈夫。……どっちにしろそんな待ってないし」

 昔から待たせる側は女の方だと決まっている。
 勿論クテラやセレンのようにきちんと時間通りに来てくれる女のひとも多いのだけれど、こればかりは慣習というか、暗黙の了解というか。
 少なくともこういう場で女のひとを待たせるつもりは自分にはないので、正直これくらいが丁度いいのである。

 風に揺れる彼女の髪はいつもより丁寧に手入れされているようで、彼女なりの精一杯なのだろうなと見て取れた。

「ふふん、いつもと違って地味な服着てるから一瞬迷ったけど、ロジェはロジェだね。すぐ分かったし」
「……ま、今日はオレが目立っても仕方ないし」

 特段地味な服を選んだつもりはなかったが、しかし派手な色彩を避けたのは事実である。
 どうにも明るい色や強烈な色は気が向かなかった。無理矢理にでも気分を引き上げるのなら、その選択は有効ではあるはずなのだが。
 まあ華は隣にあるわけだし、と、そんな言い訳でネックウォーマーに首を沈める。

「でさ、どこに連れてってくれるわけ?」
「アクセでしょ?」

 彼女からのたっての希望であった。アクセサリー選びを手伝ってほしいと。
 ロジェ個人としては自分がどうこうするより本人が好きなものを選んだほうが楽しいのではないかと思うが特段断る理由もない。
 それに、自分の部屋に入り浸られるよりは楽しかろうと二つ返事で了承した次第である。

「あっちの通りに雑貨店結構あるからさ。とりあえず、セレンの好きそうなとこから回ってこうか」
「へへっ! 分かってるじゃん! それじゃさ、早く行こうよ!」
「そう急がなくても、お店は逃げないけどな」

 胸の高揚が抑えられないのか、はしゃいで声をあげるセレンを軽く諫めて肩を竦める。
 それからほら、と掌を差し出せば、

「ん、ありがと」

 その中に収められた彼女の手を握り、目当ての通りへと足を向けた。




 セレンの要望を訊いたところでは、特段これ、といったような明確な好みやあてはないらしい。
 ただトレードマークでもある燃え盛る背中の炎が彼女の足を引っ張るようで、燃えにくいものがいいとそう言われた。
 あと、可愛いの、と。

 であればと手を引き入った先は、メタルチャームのシルバーアクセサリをメインに取り扱う店舗であった。
 木や布が使われていないので燃えにくいし、メタルの細かな造形や宝石のあしらわれたデザインは、ものによっては十二分にかわいらしいそれになるだろう。

「アクセってだけ言うと漠然としてるけど、特定のコレ、とかあるの?」

 この店内を軽く見回してみるだけでも、リングにネックレス、キーホルダーにブローチやブレスレットとアンクレット、それとピアスとイヤリング。ちょっとした加工用のチャームなども揃っていて選り取り見取りとはまさにこのことか。
 そう広くないにしても取り扱う品が細かいだけあって、種類によってコーナー分けされている。彼女の欲しがるもののコーナーに向かえばいいだろう、とそう思ったのだが。

「わたし、お洒落と言っても髪の毛縛るくらいしか、今までやったこと無かったから、……よくわかんない、かな……」

 ぽつりセレンが所在なさげに語る。
 普段の様子とは対照的、萎れたような雰囲気。
 彼女の希望で来たアクセサリーショップでそんな顔をして――させてしまうのは、勿体ないと少し思った。
 それでも彼女なり、自分の欲しいものを考えているようだったけれど――

「ロジェは、どれが似合うと思った?」

 結局のところこうなるようで。

「――そうだなあ」

 少し考え込む。
 リングは論外。ブレスレットやアンクレットはどうにも邪魔になりそうなイメージだ。ネックレスもこの服では隠れかねない。キーホルダーはアクセサリーとは言い難く、ブローチも悪くはないが――。
 セレンを見下ろす。落ち着かない様子だが、先程の所在のなさそうな様子とは少し違う。むしろ、期待に胸を膨らませているような。

 手を伸ばした。頬に垂れる髪を指先で分けて耳元に触れる。
 まだ少女らしい小さな耳を軽くなぞって首を傾げた。

「イヤリングとかしてみる?」
「…イヤリング?」
「そ。いきなりピアスはハードル高そうだし」

 穴を開けるのは微妙に面倒なのだ。うっかりしているとすぐに塞がるし、下手すると化膿するし。

「髪の合間から覗くのとかちょっとどきっとさせられるよ。髪型のバリエーション増えたら、もっと堂々と見せられるようになるしね」




「――イヤリングも、随分色んな形のがあるんだね」
「そ。好きなの選び放題」
「ロジェは、どれが似合うと思う?」

 随分と自分の意見を気にするのだなと思った。

「ルビーとか? 情熱的だしさ。モチーフは色々あるけど……ハートだと甘すぎるかなぁ、蝶とか花とかはそこまでセレンのイメージじゃないよね」

 適当に手に取り示してみせる。

「ルビー、かー。近くで見ると、こんなに赤いんだね」
「炎よりも赤いかもな」
「ふふんっ あたしの炎より? さすがにそんなことは有り得ないね! ……でも、嫌いじゃないけどね その色」

 ロジェにも似合いそう。呟かれた言葉。
 暫く増やすつもりはないかな、と、それだけ返した。

「気に入ったのはあったか?」
「んん、何さ。ロジェが選んでくれるんじゃないの?」 
「? オレが決めていいの?」

 道理でしきりにこちらの意見を求めていたわけだ。嫌ではないが、彼女本人はそれでいいのか。

「……あたしに似合うと思うのが、あるなら」
「あはは、何言ってんだよ。――ないわけないだろ」

 アクセサリーの似合わない女の子などいないわけないのだ。
 でも自分で選んだ方が好みには合うんじゃないかなぁ、って、そう声を漏らしたら何故だか急に顔を逸らされる。
 思い切ったよう、並べられた商品のひとつに手を伸ばし、少し慣れない様子で耳に付けて髪を掻きあげた。
 スクエアの小さなルビーが光る。

「どう? どきっとする?」
「いいんじゃない? ――でも、どきっとさせるんなら、もうちょっとさり気なく見せないとなぁ」
「むーぅ…」

 頬を膨らませて妙に不満げな表情。
 気に入らなかったか、と鏡を見せて問うてみる。

「これ、可愛いと、思う?」
「可愛いと思うけど。……でも、もっと可愛いのがいいんなら」

 セレンの取ったのとは少し遠く、ピンクゴールドの柔らかな煌きへと手を伸ばす。
 ピンクゴールドのメタルリボン、中央に小さなルビーのあしらわれたピアス。やや小ぶりなそれを手に取って、逆側のセレンの耳につけてやる。

「こういうのとか」
「あ……」

 鏡を前に僅か漏れる歓声、輝く瞳。
 女の子はこれくらいが丁度いい。

「これ、可愛いかも…」

 そうやって好きなものを見つけて、好きなものを胸に抱いて、笑えるくらいが丁度いい。


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