来訪に前触れはなく。
離去にも先触れなどありはしない。
喧しいノックの音は今日は窓からでなく扉からであった。
それだけで誰が訪れたのかが分かり、けれどその理由までは察せられない。
いつもは忍ぶためかはたまたただの習慣からか、窓を叩いて自分を呼ぶのが彼女の通例であった。
「おーいー、いるー?」
「……セレン? 珍しいね」
「んー、今日はちょっとね……」
遠慮とは少し違うか。彼女の口調がこうも煮え切らないのは珍しい。
断言できない何かを抱えるような性分ではないと思っていたから。
そんな彼女がこうなるのだから、自然、自分もどうも、気が向かなくなってしまう。
とはいえ立ちぼうけに放っておけるわけもない。
開けてよ、と彼女の促す声に逆らう理由もないのだから。
ベッドから降りて扉を引く。その向こう側、彼女と彼の姿を認める。
それで、なんとなく分かった。
「……そっか」
語る言葉は必要ない。彼女に届ける必要もない。
ただ一歩、ほんの一歩を引くだけだ。
線引を後ろに。預けかけた心を指先で捕まえて引き寄せる。
手元にあるべきそれを引き寄せる。
その術をどうにか思い出そうとしていた。
自分とセレンの様子を見て何か察したのか。
彼は至って穏やかな様子と口振りであった。
「私はただの調整役だよ」
「何の?」
「あたしと、ロジェのことさ」
「詳しくは何も聞いていないがな」
大体の想像通り。
セレンと彼を部屋に招き入れて椅子を促す。
「……調整しなきゃいけないようなこと、あったっけ」
自分の方はベッドに腰掛けた。微妙に乱れていたシーツの裾を引いて皺を直す。
その間も視線は恐らくこちらに注がれているのだろう。
自分を見ている。
「あるけど、あたしじゃ分からないから……旦那に、来てもらったんだ」
……正直なところ、彼とセレンが個人的にそういう話をする程に親交を深めていたのは意外だった。セレンが何かと彼の精製師としての腕を当てにしている様子は見たものの、そもそもの第一印象がお互い良いものとは思えなかったから。
なにせ自分たちの最初の繋がりと言えば、彼に炎をけしかけていたセレンを自分が収めたのが発端である。それから幾度か関わりを持ったけれど、彼らの間でこういった、プライベートな話題を持ち出される理由も切っ掛けも思い浮かばない。
大方セレンが何かボロを出したかといったあたりが妥当か。彼は無闇矢鱈に立ち入るようなことはしない――どころか、ひととの関わりを意図的に避けている様子ではあるが、かといって知己の異変をどうでもいいものとして放置する不親切は持ち合わせていない。
助力を求められれば乞われるまま自分の力を尽くす、その様はいっそ懇篤であると言い表してもいいかもしれない。少なくとも、自分は彼のことをそのように認識していた。
そうして今、目の前に彼と彼女が並んでいて。
ふたりを見て心の奥、密かひとりで嘆息する。
必要ないじゃないか。
おまえなど。
「ロジェとの会話が足りないんじゃないかって、旦那がさ、教えてくれて」
「……」
「ロジェがどうしたいのか、もう一度聞いてみたい」
態々彼を呼んだ割には、随分と今更のことを聞くのだと思った。
自分は恋人になりたいなどとは言わないし、もしそういったものを望まれるのならばそれは筋違いだからと、勘違いさせたのならば申し訳ないと。
だから諦めて、去ってくれるのが一番いいのだと、特別などとは叶わないのだからと。
それでセレンも了承してくれた筈だった。
「……オレは別にどうだっていいよ。セレンがしたいようにすればいい」
だからそれを繰り返して、言葉は最小限に留める。
お互いのしたいようにしようと、そういう風に結論付けて決着を付けて、それでもう終わったのではなかったか。
もう離れろなどと吐かなくてもよいのではなかったか。
傍がいいと叫ばなくともよいのではなかったか。
「……なるほど、ロジェに話を聞くつもりとするつもりがないというわけか」
すぱりと。切り込むでも割り込むでもない、傍観の立ち位置を崩さぬまま、ひどく冷静な響きだった。
少しだけ疎ましくなって向けた視線は身勝手の自覚に勝手に下がる。
どうしてこんなことになっているんだか。
「会話を望む相手に対してその態度は、些か誠意に欠けると思うが、相応の理由があるのか?」
「……」
理由。
掲げられたそれはどうにも鈍い。
これ以上無為に言葉を交わしたくないというのがそれか。
これ以上不意に心根を揺らされたくないというのがそれか。
最初で既に違えていたから。
覚悟が裏打つ恋慕など、募らせるべきものではないと思ったから。
――違えたままに噛み合わぬままに、ふたり歩んで致命的な訣別を待つよりは、立ち止まって突き放してしまった方がいい筈だからと。
語って聞かせるには彼女は頑なで、語って聞かせるには自分がそれを認めたがらない。
傍に。
「言いたいことはもう、大体言ったつもりだから、これ以上言いたくない」
「ならセレンから聞くが、構わないということだな、ロジェ」
セレンから聞く、ということの意味は考えるまでもなかった。
線をもう一本。ここまで持ち込んで彼を呼んだのだから、彼女の側に包み隠すものはもうないように思えた。
であれば恐らく、全てを。
「――いいよ」
全てを諦める。
こんなに早くに破綻してしまうものとは思わなかった。
それで過去、傍にいるひとを喪ったとき、自分はどうしていたか思い出そうとして、
――空白。
何か空虚を掠めた違和感。
誰もいない。
誰もいなかった。
誰もいない筈だと、そう背を向けられる。
自分は何を思い起こそうとしていたのか。
これは自分にとっては意外なことだったが、セレンは全てを話してしまうことはしなかった。
あくまでも自分と彼女の関係だけに留まるその口上を、自分はどこから聞いていたのだったか。
頭を埋める白が、疼痛のような存在感を以て思考を遮る。
いない。誰も。
それでもその中、涙混じりに彼女の吐いた、
「……ロジェが、こっちを、見てくれないんだ」
その言葉ばかりは酷く刻まれる。
見られるわけないじゃないか。こんなにも鮮烈なものを。
それでいていつか遠ざかるものを。
「セレンの言い分に間違いはないのか?」
「今更異論を言うつもりはないよ」
ここで嘘を言うような人格ではないだろう。
嘘を言われていたとしても、今更言い訳すべきこともない。
……きっと言い訳をして上塗るよりも、事実の方がよほど酷いから。
「なら、ロジェ。セレンにお前の機嫌伺いをさせたいのでなければ、お前の言いたいことをもう一度言うべきだ」
「……別に、どうだっていいんだ」
だから離れてしまったほうがいい。
何を言ったって何を願ったって、自分はここから動けない。
進まないために縫い留めた足で、引くことだって出来やしない。
突き放す力も弱いまま。
言いたくないと泣いている。
「セレンが嫌なら、オレに執着する理由、ないだろ」
「ロジェ」
「……っ」
叱責にも似た響きに声が詰まる。
けれど続けるべきなど元からなかった。押し留めるだけで精一杯だから。
「向き合うつもりがないのなら、そう伝えることも誠意だ。相手に全てを委ねることは、自らの責任を自らで負わないということだ」
「――あたしは」
見兼ねたのかセレンが口を開いた。
こちらを見ている。
「ロジェがこっち見てくれないのは嫌だけど、でも、ロジェとこうしてるのは嫌じゃないよ」
「……なら、」
あのままでよかったのに。掠れ声は返答とは程遠い。
あのまま決裂を恐れて足は動かぬままでも、そこに温もりが熱があったなら、それは幸せとは程遠いけれど、それでもどこかで、満たされるものがなかったから。
虚ろで実体がなくても。どうしようもなく未来がなくても。
暖かさがそこにあったなら。
それをそのままに望むのが我儘なのは分かっているから、どうか早く離れて欲しいって、それだって我儘だ。
だから許されないし、彼だって自分のこの様を咎める。
「ロジェ。これは会話とは言わない。お前はセレンの言葉を、何一つ受け取らず返していない」
今度はセレンも割り込まない。ただ彼の言葉が続く。
「お前が話すのは私が促してはじめてだ。それも、セレンに向けての言葉ではないな。先にも言ったが、取り合うつもりがないのなら、それを伝えることも誠意だ」
誠意。伝えること。
全てを伝えた上でならば許されるのだろうか。
全てを伝えられぬままならば許さなくてもよいのだろうか。
それが何のことか分からない。
伝えること。離れること。手放すこと。
どうしてこれが重なるのか。
大切なものはなんだったろうか。
「それさえできないなら、私はお前を見損なうよ」
大切なものをどうすればいいのだろうか。
「……まだ、見損なってなかったんだ?」
「正直なところ、失礼な話、私にはお前が歳相応には見えなくてな。まるで幼い子供がどうすればいいのかわからずに立ちすくんでいるようにしか見えない」
幼い子供など。自分はもう十分に成長しきって、一人でだって生きて。生きられなくても。
けれど似たようなことを前に言われたかもしれない。述べられた小さな掌。子供みたいですと彼女の声、笑う笑顔。
あの子は今どうしているだろうか。
「だからか、まだ望みはあると思っている」
それは置かれた慈悲なのか、彼なりの厚情なのか。
そうやって望まれて、何かを願われて、それに応えるにはどうすればいいんだったか。
望まれていた筈なのに。
筈なのに、望まないひとたちがいたから。
何を望まれているかも、分からなくなってしまう。
「……どうすればいいんだよ。教えてよ、……オレ、だって」
もう嫌だと、否定に身を預けて沈んだ。
「ロジェ……」
「何が、だ?」
胸の奥に刻まれた背信が嗤うのだ。
お前は馬鹿だと蔑んで、どうにもならないのだとそう言って。
何もかも叶わないんだって攫っていく。
「置いてかれんのだってひとりだって、もう、たくさんなのに」
縋ろうにも伸ばす先がなくて、胸元で掌が空を握る。
何も掴めない。あなたはいない。
大切なものが、たいせつな、
「もう、分かんないよ……」
割れるように頭が痛む。
軋む耳鳴りが嘲笑によく似た不快を帯びていて、耳を塞いだって意味がないと知っている。
なのに分からない。何もかもが分からない。
喪ったものはなんだったろうか。