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29.あいして


 空白を埋めるものを探し求める。
 虚ろの意味も諒解できぬまま、ただ無いことを知って、無いものへと手を伸ばす。
 その行為の意図を見出すことは、自分自身にすら難しかった。

 意味などないのだ。
 意味など亡いのだ。
 喪われたことにも。奪われたことにも。手放されたことにも。
 そうでなければやっていられない。

 自分が独りになることに、意義があるなど認められない。
 そんなものはいらない。そんなものは欲しくない。
 そんなものを得てしまうよりも、ただ傍に在って欲しいとそれだけで、

 手放そうとする掌を引き留める、胸を頭を巣喰う欠落。


「ロジャー」


 あなたの声が聴こえない。
 あなたの声がわからない。
 あなたのことがわからない。

 ――大切なものは、



「ロジェ?」

 呼びかける声に我に返る。
 面を上げればセレンと彼が、案ずるようにこちらを見て、遅れて状況を思い出す。
 話を、していた。

「……置いて行かれるというのも、一人というのも、私には唐突すぎてわからない」

 彼の声は落ち着いていて、がらんどうの中にすとんと落ちた。

「もう少し説明はしてもらえないか?」

 されど答える言葉は持ち合わせず、声も吐き出せそうにない。
 顔を上げれば頬を熱さが転がり落ちる。隠すように顔を伏せた。
 滲む視界に遠ざかり、床に潰れて広がる雫。

 自分みたいだ。
 零れ落ちて掬われないまま、どうしようもなく頽れる。

「……だって、オレ」

 胸元に手が伸びる。そこに救いを乞う。
 幾度となく繰り返した無為はまたも無為に終わって、何も掴めぬまま空を切る。
 違和感。警鐘。背信。

 横たわるもの。



 何も映さぬかと思われた瞳が、熱に遮られて瞬き引き戻される。
 鮮やかな橙。小さな腕。
 首へと回されて力がこもる。

「ロジェはさ、やっぱり、あたしじゃなくて――……旦那に、見て欲しいんじゃん」

 繋ぎ止められるかのような温もりは確かに肌に伝わって、そこにいるのだと主張する。
 自分が。彼女が。確かにここに。
 そこに虚ろを見出すことが、どうして叶うだろうか。

 どうして叶うのだろうか。

 少しずつでいいから自分の望みを口に出して伝えろ。
 誰かに察してもらおうというのはずるい考えで、無責任な考えだというのを忘れずにいれば、じきにできるようになる。

 彼の語る言葉が耳に染みて、そうであればと奥底が思う。
 望みを伝えること。求めること。どうかと縋り乞い願うこと。

 要求という矛先を、向けられるのが恐ろしくて、向けることも恐ろしい。
 踏み違えて強制に、踏み外して侵蝕に。
 そういうものであるとこの身が知って、そういうものであるとこの心が竦む。
 だから望むことなどやめてしまえとそう思って、手放そうと振り抜いた腕が、

「あたしはさ」

 未だ彼女を縋っている。

「買い物とか、キスとか、ロジェとは恋人らしいことは、全部一通りしたけど、楽しかったし、このイヤリングも、嬉しかったし……ロジェの身体、いつも暖かいし」

 だから手放せないでいる。

「やっぱり、こうやってロジェの傍にいたいよ」



「……ずっと――ずっと一緒にいてくれるなら、いいんだ」

 いつものリフレインだってうまく響いてくれやしない。
 下手な反響に耳を穿たれてぐわぐわと頭に鳴り響き、歪に何も思い出せやしない。
 ただ、ただ、願うことを。

「ずっと一緒にいられるんなら――」
「……だから、そう、言ってるじゃん……ずっと、居るってさ」
「だって」

 願えないその故も、信じられないその理由も、なんでこんなにも、自分は独りで何も得られないかって。
 語るその前に言葉が途切れて、何を吐けばいいか分からないことに、今更気付いた。

「だって――……?」
「どうした?」

 足りなかった。
 頬を伝う涙に紛れて失われてしまったかのようなそれを、自分はいつしか持ち合わせずにいた。
 それが大切で。それを楔として拠り所として。

「……あれ、オレ」

 そうだ、ずっと頭が鳴り続けていた。
 あの日から。どの日から。分からない、分からないけれど、そうだこれは失ってしまったあの時からずっと、ずっとずっとずっと。
 不安定に不安定を重ねて既に崩れ落ちているのに、それにすら気付かないで、ただただ振り払うのに必死で思い出ごと。
 何を。何が。奥底に大事に抱えていたはずの何を。

「オレ――……なんで」

 セレンを見る。
 彼を見る。

 答えはない。



 背を向けたのは誰で、遠ざかるのは誰だ。
 あなたが。あなたは。

 裏切ったのは、境界を越えたのは、叶わぬ夢に思いを馳せたのは、傍にと望んで縋ったのは、掌を甘受して擦り寄ったのは、届かぬ腕を伸ばしたのは。
 誰が、誰に。
 取り返しの付かぬことを知らず、選択を誤ったのは。
 ただ抱えていた思慕を向けてしまったのは。

 だれ。


「ロジャー」

「大好きだよ――」




 他に何もいらなくて誰が何を求めたって知らなくてあなたがいればそれでよかったのにあなたしか見えなかったけれどそれが一番の幸せだからそれすら甘んじてただあなたのためにだからあなたにもと願って視線は合わないけれど大切が食い違うことだって知ってたけど同じものを見ることができなくなってただ傍にいられればあなたのために生きられたらってそればかりをずっとずっとずっと外のことなんて知らないでごみ溜めだってよくてだって住めば都って言うじゃないかあなたと出会えたからそれだけで都よりも価値がある都なんて大したことないんだってひどいところだって別にそこでだってあなたが望むのならば共にいられるならば構いやしないけれどだけどあなたはここがいいのだろうここに縛られているのだろうだからそこを守り続けるから帰る場所にしてくれていいからずっと一緒になんて言わないから心ばかりはってそれだけ望んででもできればなるべく長く触れ合って熱を分けて寄り添い合って眠って起きたなら笑ってそう笑って欲しくてそのためならなんだってするんだってむしろさせて欲しくてけれどあなたが制するから諦めていたけれどいつかは許されるんじゃないかってそう思ってて叶わないなんて思いもしなくて思いたくなかった全てだったから全てにしたかったから他に知りたいことなんてなにひとつなかったからだって余所見なんてしてたらそれだけあなたが減ってしまうからそんなのは絶対嫌だったからいつだってあなたのことばかり隠しごとなんてあなたが嫌がるならしないしあなたが何かを隠したってそのことだって咎めやしないから少し寂しいけどでも仕方ないって分かってるからなんでもいいから傍に置いてできることなら撫でてほしいし褒めて欲しいし優しくして欲しいし思って欲しいけどわがままは言わない嫌われてしまうのは嫌だからってずっと思っててだから全部甘受して受け入れて悲しいのも哀しいのも辛いのも痛いのも苦しいのも寂しいのも淋しいのもあなたのために耐えるよいい子でしょうでも別にあなたのためじゃなくて本当は自分のためだよだってずっとあなたといたいからきっとこれは媚を売ってるんだって分かってるしお愛想なのかもしれないけどそれでも心の底からあなたに喜んでもらいたいし気に入って欲しいからだから他に何にも知らないから使われることしかだって昔から自分がうまくやれたことなんてなんにもなくて嫌われてしまっていたからどうすればいいかよく分からなくてでもほらだってもっと愛想よくしろって笑顔とか見せればちゃんとお客も捕まえられるって教えてくれたのはあなただったでしょう言われた通りにうまく出来るようになったと思うし笑顔だって上達して痛くても苦しくても嫌な顔しないでいれば機嫌だって取れたからあなたの言うことが正しかったからだからあなたの望むことを教えて欲しい初めてみたいにうまくやってみせるからだからその代わりお願い愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して。


 あいして。



「――なんで……?」

 こんなにも叫んでいるのに、何を求めているのか分からない。
 こんなにも希っているのに、何が欠けているのか分からない。
 思い出を全て空にして、それなのに残されたこの恋慕の、行き場をどこに探せばいいか分からない。

「ロジェ」

 呼び戻される。熱に腕に繋がれる。顔が近づく。捕まえられていて逃れられない。
 逃れる先も意思も、最初からない。

 深く重ねて探られて澱んで、絶叫も靄に紛れて有耶無耶にされてしまう。

 あいして。




「……私の目は気にしないのか」

 咳払い一つ、流石に呆れの色が含まれるか。
 ようやく口が離されて、自分は何も言わないまま、セレンが振り返って反駁する。

「だってさ、こうして捕まえてないと、ずっと沈んで、行っちゃいそうだから」
「知らぬわけでもない私しかいないとはいえ、人前だということには気をつかえ……」
「……」

 むっつり口を噤む彼女は妙に不満気で、不満ならやっぱり突き放してしまえばいいのにって、そこばっかりはどうしても揺らぎそうになかった。
 あいして。

「……セレンは、こういうので、いいの?」
「こういうのって?」
「こうして、一緒にいることかなあ」

 あいして。

「……いいよ」
「……」
「一緒に、いたいし」
「……そっか」

 あいして。
 あいして。
 あいして。

 それならいいやって瞼を伏せて、安穏と熱に縋る底で、叫ぶ声が止まらない。
 熱病みたいに纏わりつくそれは自分自身に妙にしっくり来て、多分ずっと望んでいることなんだって、今更みたいに諒解していた。

 あいして。


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