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30.名を呼ぶ


「……今、なんて」

 その言葉の意味は既に諒解できてしまっていた。
 同時に胸を喚び起こす強い拒絶に、理屈でなく心が、全てが受け入れられなかっただけだ。

「事情が変わってパーティの継続が難しくなった。悪いが、代わりのものを探してほしい」

 一語一句変わらない。
 ただ自分が問い返す声が、みっともなく掠れていた。
 なんて、と。取り繕うでもなく、ただその場に留まるだけの。

「……聞こえなかったのか?」
「――っ」

 そんなものは全て見透かされて、相も変わらず落ち着いた声。突き付けるような語調。
 もう聞き返すことなど許されない。それを悟って唇を噛んだ。
 声を絞る。

「……代わりを、探すってのは……? 旦那はどうするの?」
「私はもう仕事はうけないよ」
「じゃあ、どうするの」

 仕事を請けないということは、冒険者を辞めるということだ。
 生きるすべを求めて精霊協会に所属していた彼が、それを辞めるということは、即ち。

「ひとまずは身辺の整理だな」
「……いなくなるの?」
「遠からずそうなる」

 この都を離れて、行くところなどあったのだろうかと思う。
 そんなことはこの際重要じゃなくて、自分にとってもっと大切な、もっともっと考えを及ばせるべきところがある筈なのに、どうにも頭が回らない。
 彼の言葉をその表面を、受け止めるだけで精一杯になっている。

 どうしようもない。



「私は言ったな。自分は死んだ身だと。もうしばらくは保つと思っていたが、そうでもなかったらしい」

 そう語る彼の様子が自分のことの筈なのに甚く客観的で、その様子が非現実的で、夢なのだろうかと疑ってしまう。

「術で無理矢理身体を動かすのに限界が来ている」

 疑って、その疑念を呑み込んで、夢であると信じたくなる。
 叶わない。

「……限界が来ると、どうなるの?」
「私はただの骸になる」
「むくろ」
「寿命だよ」

 残酷な、宣告にも似た響きを帯びていた。

「出先でそうなる訳にはいかないし、この宿を騒がすのも申し訳がない」

 彼は言葉を止めない。未だ合理的に話を進めていく。
 こんなにも饒舌な様子は珍しいなと、現実逃避も極まりない考えが頭を過ぎった。
 思い出を吐くほど遠ざかる。
 あなたから。

「間に合ううちに出て行きたいと思っているところだ」
「出て行って、どこ、いくの」
「とりあえずは街の外だ」
「街の外の、どこに?」
「さすがに墓はまだ作っていないな。死に場所を探すところからになるから、間に合う気がしないが」

 やめてくれ、と思った。そんな風に死ぬことを見つめないでくれ。
 そんな風に、あなたにそんな風に語られてしまっては、そのまま誘われてしまいそうになるから。
 踏み出せない最後の一歩を、追いかけて、どこまでも。

 誰を求めるかもわからないまま。

「……やだよ」
「私も死にたいとは思っていないよ。しかし、無理は無理だ」
「オレが、なんか悪いことしたから?」
「なぜそうなる……」

 呆れられたようだがそう的外れでもないと思う。
 なにか負担をかけたとか、なにか許されないことをしたとか、超えてはならぬ境界線を意識して、けれどそんなもの最初から見えてはいないのだ。
 彼が、彼のために、共にいるためにとか、最早目的なんてひとつも分かりやしないけど。

「なんか、だから、それで、――それで、全部だめになっちゃったのかなって」

 俯く。頭を押さえる。
 これは罪悪感などではなく単なる後悔で、何を後悔すればいいか、何を懺悔すればいいかとか、そういう全てが頭でこんがらがって答えが出ない。
 自分が理由ならいっそそれでいいのに。

「関係ないよ。寿命だと言ったろう」

 それすら許してもらえない。

「そもそも私が長らえていたことがおかしかったのだから、こうなるのも仕方ない。急な話でお前には負担をかけてしまうが、すまない」



「……ついてく」

 思いつきでもなんでもなかった。誘われた掌を取っただけ。
 その掌が誰のものかは知らないけれど、ずっと、ずっと惹かれていたから。

「ついてきてどうする」
「……いっしょに、いく……」

 頭に置かれた掌に体温なんてない筈なのに、それがひどくあたたかい。
 温もりに縋って擦り寄って、それを繋ぎ止められればいいのにと願う。
 全ては掌を空振るだけで終わるのに。

「それがどういうことなのか、分かって言っているのか?」
「どう、いう」
「私は死にたがる人間を好かない」

 後を追うなら。
 必竟そういうことになる。

「……」

 何が悪いのか、分からない。

「……でも、だって、オレ……旦那、ひとりじゃん」
「私はそれでいい」
「やだ……」
「そうは言われても、私はじきに朽ちる」
「やだ」
「無理を言うな」
「……やだ……」

 彼の願うことを叶えてやりたいと思っていた。何か力になりたいと、そのためならば何でもすると。
 けれど彼は自分に多くを求めなかったから。あくまでも仕事とその延長線の上くらいで、だから自分ができたことは何もない。
 なのに、なんでこんなところで、こんな風に。

 彼の手を取る。冷たい。
 ひとの体温はそこにはない。
 それが何の問題になろうか。


「ここまで泣かれるとは思わなかったが、迷惑をかけるのは不本意なんだよ」
「……迷惑なんか、そんなの」
「ではお前は私が物言わぬ骸になったとき、何ができる?」

 問い詰められて黙り込む。
 訪れるべき瞬間に考えを及ばそうとして、その前に思考が止まってしまうことに気付いたから。
 何ができる。何をする。
 彼の傍らで自分はどうしている。

 それ以前の問題で、ただその未来を拒んでいる。

「余計な荷物を背負い込むな。私はもう駄目なんだよ」

 でも、あなたが駄目なら、同様に自分だってもう。



 埒が明かない問答にいい加減彼も飽いてきたようだった。
 筋の通った論述ではあるのだ。ひとつひとつ、確かにある意味では正しいのだと思う。
 それでも受け入れられないのは、受け入れてしまったら最後、どうすればいいか分からなくなるから。

「……こうして話をしている時間に、少しは私の準備もできるのだが」

 憂いるように言葉を零す。頭の痛そうな顔をしている。
 彼の頭が痛むことがあるかどうか、そういえば自分は知らないのだと思い出した。
 何も知らない。

 知らされていなくて、踏み込むこともしなかった。

「準備って、何の準備するの」
「荷物をまとめて、不要な物資を処分し、必要になる物を手配する」
「てつだう」
「今のお前は頼りにならない」


「……オレ、どうすればいいの」
「友人らを頼れ。あるいは協会に掛け合えば、人員を募集しているパーティと出会えるだろう」
「旦那は?」
「その頃には私はこの街にいない」

 どうしてそう悟ったように言を紡ぐのだろう。
 全部ひとりで決めてしまって、その癖こうしてひとの心配をするものだから、どうせなら甘えてしまいたくなって、その甘えを許してくれない。
 差し伸べられた掌が自分の都合のいい幻想であることは知っている。
 その陶酔を裂かれ泣くことの身勝手さも。

 知っていて、それでなにができるわけでもない。

「オレ、なら、ここにいなくたって別にいいよ」
「……訂正しよう。その頃には私は、この世にいない」
「……でも、旦那が街が出るんなら、オレだって――」


「死ぬか」


 咎めるような声音だった。

「……っ」
「お前が言っているのはそういうことだ」
「……だって、そうじゃなくたって、生きてくなんて」

 ずっと招かれていたから。
 ずっと誘われていたから。
 ずっと惹かれていたから。

 自分から歩みを進められなかったそれだけで、手を引かれることさえあれば、いつだって越えてしまえる境界で。
 そうなったときはいっそ嬉しさすら感じるんだろうって分かっていて、だってこれでいけるなら。
 あなたの元へ戻れるなら。

「どうすればいいかわかんないよ……」

 ひとりだけ生きて残される絶望に、甘い誘惑に囁かれる。
 その衝動の、名前を知らない。



 掌が離れた。
 温度のないそれが遠ざかる。
 追いかける手を断ち切るように、

「生きる理由など自分で作れ。私は他人の人生まで背負いたくはない。そして私は、安易に命を捨てようとするものを好かない」

 ことば、が。

「お前がそのつもりなら、私は一切構わない。これ以上言葉を交わすことも無意味だ。失礼する」



 向けられる背中の頼りなさ、揺れるローブの暗い色、無遠慮に振り解かれた掌の冷たい感触、縺れてついた膝の痛み、零れた涙の生温さ。
 そういう全てに緩やかに力を奪われて、追い掛けることができないでいる。
 結局何一つ通じ合えぬまま。
 その姿を、見送ることしか。

「……あ、」

 生きる理由など。自分で作れたなら苦労はなかった。
 何一つ気付かぬまま、ただ能力ばかりを見出して望む父に。お前さえいなければと、あの時殺してしまえばと叫ぶ母に。
 この世に存在することだって否定されて、穢されたことを嘲笑われて、呼吸の仕方だって忘れてしまいそうなくらいだったのに。

 自分に価値があるなら、生きる理由があるなら、そんなものがあるのなら。
 何故こう何もかも叶わないのか。
 あなたはもういないのに。

 あなたはこの世にいないのに。

 ぼたぼたと落ちる涙が鬱陶しく、全てを忘れられたならって、この期に及んでそんなことばかり考えていた。




 それで何が解決するでもない。
 あのあと意識を落としてしまって、それから目覚めたところで多分現実は変わってなくて、ベッドでもう一度眠っても、朝が来ても変わってなくて。
 ただ、このまま終わらせてはいけないのだということを、漠然と感じていた。
 会話にもならない、あの投げ付けられたような言葉を最後に、――最期にしてはならないのだと、そう思ったから。

 相変わらず告げるべき言葉は見当たらないし、彼を納得させられるだけのものを持ち合わせてはいない。
 それでも会話を重ねる徒労を惜しみたくはなかった。

 顔を洗って軽く格好を整えると彼の部屋へと向かう。
 身辺の整理をすると言っていた。出て行く準備を整えると。恐らくはその最中だろう。
 邪魔にならない程度に留めたいとは思うし、少し頭もすっきりしたから何か手伝えるかもしれない。ぼんやり考えながらノックをする。
 返事がない。

「……旦那?」

 呼び掛けても応答なし。
 忙しくしているのだろうか。まさか既に出て行ってしまってはいるまい。
 訝しみながらも再びノックして、やはり反応がない。

「旦那、いないの?」

 試しにドアノブに手を掛けてみれば、容易く回って扉が開く。
 不意を打たれそのまま部屋の中へと滑り込み、

 整然と積み上げられた荷物の上、倒れ込んだ姿を見つけた。



 血の気が引く。
 急激に音を立てて血流が滞る錯覚、目の前が暗く閉ざされる自覚。
 そんなことは、この際なんの問題にもならない。

「――だん、な」

 違うと否定するのは感情の部分、嘘だとそんな訳がないと、何かまた調子が悪いんだって、少し倒れてしまっただけだって。
 だから、だから、呼べばきっと。

「旦那」

 呼べば。
 呼びかけさえすれば。
 それで、あなたは、そこにいて、いるのだから、その姿は消えていないから。
 まだ届くんだって、そう、

「……旦那、旦那!」

 しんじて。

 肩を掴んで揺り起こす。力の入っていない身体がだらりと凭れ声はない。
 伏せられた瞼、眠るようなその表情は初めてだったけれど、頬の冷たさも肌の色も、何もかもいつもと変わりがないのに。
 ただ、答えがない。

 動かない。

「旦那……なんで、嘘、だって、まだ」

 間に合ううちと言っていた。
 それは裏返せば、時間はまだ残されているということではないのか。
 目減りしていたとしても。それが唐突に途切れてしまうようなことは。

 そんなこと、彼は一度も明言していなくて、何もかもが自分の都合のいい解釈だったのだけれど。

「――旦那」

 抱え込んだ身体を揺らす。鼓動もないし呼吸もない。それは今更。
 ローブの裾から伸びた掌も揺すぶられるまま力なくぱたつくだけで、首も身体も自分の腕に委ねられるままで、まるで、まるで、

 ――死んでいるみたいだって、

「旦那!」

 声を張れども届かない。
 ここにいるのに動いてくれない。
 どうしたって返事がない。


「旦那――だん、な、旦那……旦那、――ユハ」

「ユハ」

「ユハ、ユハ――!」


 その名を呼べど返事がない。
 それを知って、知りたくなくて、反応のないことに安堵すらして、
 でも答えて欲しくて繰り返す。

 それが拒絶であれなんであれ。
 あなたからの答えが欲しかった。



 涙はとっくにローブを汚して止まりそうになかったが、いつまでも泣いている訳にもいかなかった。
 動かない身体を抱え上げて立ち上がる。彼の身体の事情に関しては自分よりも病院の方が詳しい筈だった。
 何か打開策があるのならそこしかない。
 少なくとも、自分が頼れる範囲では。

 そう信じて縋ったのだけれど、結論から言うと叶わなかった。
 限界が来たのだとか、もう手遅れだとか、昨日の彼と同じことを繰り返すばかりで。
 しまいには埋葬するなどと言い出すものだから、まだ手立てがあるからと、知り合いを頼るからとそれだけは断固拒否して病院を出てきた。

 そんなことをしてしまったら、もう何をしたって取り返しがつかない。
 彼が自分の名を呼ぶことも。彼が自分の問い掛けに答えることも、彼がそこにいることも、彼と共に在ることも触れることだって、何もかも叶わなくなってしまう。

 それだけは絶対に嫌で、されど打開策は見つからないままだった。
 実際のところ、死霊術の類に詳しそうな知り合いは思いつかない。死者を蘇生するだの、死体をどうこうするだの、そういった技能の持ち主は精霊協会にはいるのだろうけれど、そういう会話をしたことのある相手はいなかった。
 ハイデルベルクの街並みの中、どうしようもなく立ち尽くす。

 肩と腕に掛かる身体が重い。彼ははっきりと小柄な方ではあったけれど、力の入らない身体の重みというのは想像以上に伸し掛かるものだった。
 このまま、ずっと、どこにも行けないまま共に朽ち果てるなら。
 それはそれで一種の幸いなのではないだろうかと、そんな風に思ったりもした。

 あなたがいなくて、あなたがいて、あなたはもう動かなくて。
 大切なものも分からないまま喪失感ばかりを抱え込んで、それで生きろと言われても。
 この足が動く筈もない。
 この掌が届く筈もない。

 だから一生ひとりきりだ。 

「ユハ」

 名前を呼ぶ。
 呼べなかった名前を呼ぶ。
 返えはない。
 知っている。

 知っているからこうして繰り返して、覆されるのを待っている。



 気がついたときにはもう人通りもなくなってしまっていて、いよいよこのまま共に腐り落ちてしまおうかと、そんな風に希望を見出した時だった。

「――あれ、本当に殺しちゃったの?」

 誘うようなその声に振り返ったのは。


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