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4.亡骸の聲



 自室に戻るときはいつだって心の準備が必要だった。
 幾度と無く繰り返されたその行為の、叩き付けられる悪意そのものにはとっくに慣れたのだけれど、齎される物体にはまだ慣れられそうにない。
 鼻を突いたのは紛れもない腐臭。
 群がる羽音が耳を打って、瞳に飛び込むは崩れ去った獣。
 哀れで穢らわしいその亡骸。

 この全てに慣れることができる日がいつか来るのだろうか。
 宛ら不快感しか伴わないその白にも、身体を捻じ伏せる荒れた掌にも、力尽くで開かれる痛みにも、すっかり慣れてしまったのと同じように。
 こうして打ち棄てられるこの骸にも、いつか。

 それは心を涸らせることと紛れもない同義で、つまりは、またあの場所へと、自分は――



 目が醒めた。
 まだまだ夜明けには遠く、無明の闇の中、身を起こして前髪を払う。
 嫌な夢を見た。悪夢でもなければ魘されていたわけでもなく、この程度で打ち拉がれるほど柔ではないが――とにかく、嫌な夢だった。
 それでも嫌で済むようになったのは、自分が確かに心を涸らしたから。
 突き付けられる全てに対して感覚をなくしてしまったから。

 だからそんなことは、夢に見るまでもないものである筈だったのだ。
 今更すぎて馬鹿らしくて、思い出す必要なんて全くないような過去のそれを、呼び起こしたのは地に伏した骸。



「……ロジェ、か。何をしに来た?」

 彼の立つ後ろに隠された、肉を削ぎ落とされた獣の骸。
 まだまだ真新しいそれと足元の魔法陣が、彼の為したそれを如実に表している。
 踏み躙られ消されていくその紋様はロジェには意味不明で、読み取ることなど出来なかったけれど。
 彼の身体に刻まれていた刺青に対しても同様、同じ精霊術とはいえ系統が違えばこんなものなのだろう。
 そもそもこうして彼の繰るそれは、精霊術とはかけ離れたものであるような気がしているが。
 どちらにせよロジェが門外漢であるという事実に変わりはない。

「もし私を殺したくなったら、火をかけるのが一番だろうな。これが全て消えてしまえば、おそらくはただの屍になる」

 それでもその事実を知ることができたのはロジェにとって僥倖であった。
 自分の為すべき、気をつけるべきを、分かりやすく示してくれる事実だったから。

「それにしても、毎回こんな風に消えるつもりなん?」
「次からは声をかける。……悪かった」
「ん。じゃあよかった。それならついてけるもんな」
「……そこまで気にされるとは思っていなかった」

 何を言っているんだか。
 ここまで散々気にかけてきたじゃないか。
 何より本来このひとは戦いに関しては門外漢であったのだから、心配するのも当然というか。

「こんな何が出てくるかわかんないとこでいきなり一人になられるとか、こっちの身にもなってくれってもんだ」
「私一人なら、小物は近づこうともしない。奴らは異質なものに敏感だからな」
「敏感じゃない悪いヒトとかもいるじゃん?」

 それこそ物盗りだのなんだのの類であるならば、人気のない場所はむしろ格好の狩場ですらある筈なのに。

「こんな場所に人が出るものか」

 どうしてそんな風に言い切ってしまえるのか。
 このひとは自分の身に何が起ころうとも構わないのかもしれないけど、無頓着になれないこちらの身にもなって欲しい。

「人生何があるか分かんないもんだし。行き来の最中に、なんかあっても、ヤだし」
「何もない。大丈夫だ」
「なんでそんなの分かるんだよ」
「今までがそうだった」
「今までが当たり前に続くとでも思ってんの?」

 苛立ちの中、無意識に滲ませたものはなんだったろうか。
 本来自分にはこのひとに対して何を要求する権利も義理もないはずなのに。
 何を求めてしまっているのだろうか。何を、掘り起こしているのだろうか。

 あなたはもう行ってしまったのに。

「……お前がなぜ怒るのか、わからない」

 戸惑いに撃ち抜かれ意識的に頭を冷やす。
 そうだ、これを目の前の相手に向けるのはフェアじゃない。
 自分でも分からないものを、分からないままに、ひとに向けるような真似を。

「……ごめん、今のは八つ当たり」

 眩暈がする。
 このひとに対してではなくて、自分に対して。
 それでも伝えるべきは伝えないとどうにもここは引き下がれない。
 どこか向こう見ずで、ひとより気配が希薄なこのひとに、知らないうちに遠くに行かれてしまったなら。
 自分には最早、追うすべなど残されはしない。

「でもさ、いきなりいなくなられるとびっくりするのは本当なんだって。しかもそんな助けも入らないようなところで」
「次からは声をかけるといっただろう。それで不足だというなら、私はどうすればいい」

 それくらいには思い詰めていたものだから、あっさりとそう返された時には驚いたと言うべきか拍子抜けしたと言うべきか。
 ええと、そういうことは、つまり。

「ついってっていいん?」

 そういうことに、なるのだろう。
 その言葉をやや斜め上に解釈されたのか、相手は妙に訝しげな様子だった。

「……死霊術に興味が有るのか?」
「や、そうじゃなくて、だから……ヤなんだよ、一人にされると」
「前にも言ったが、気味の悪いものを見るぞ」
「前にも言ったけど、それくらい気にしないって」

 悪意を以て叩き付けられるものに比べたら、余程ましだった。
 それでこうして受け入れられて安心して、そういえば、と口を滑らせてしまったというか。
 多分そんな具合なんだと思う。純粋に結構気になっていたことでもあったし。

「旦那、ゴハン一日何回食べてんのそういえば」

 この話題は避けていたというか、あまり踏み込まないようにしていた感があったから。
 いい機会だからこの際に、といったノリで、多分。

「何回…? ……昼は食べたな」
「……お腹すいたら食べるスタイル?」
「必要になれば必要なだけ食べる」
「……そんなもんかぁ」
「消化にも難があるからな。普通は食べないもののほうが、都合がいい場合もある」
「……そっかー……」

 別に純粋にどうしているかが気になっただけで、大して伝えたいこととか、そういうものはないつもりであったのだけど。
 彼には自分が、どこか煮え切らない様子に映ったのだろうか。

「言いたいことは言っておけ」

 そう言われて、咄嗟に何を言えばいいか分からなかったのは嘘ではない。
 けれど確かになんというか、胸に蟠るものはあったような気がするのは確かで、でもこれを吐いたところでどうにもならないのも間違いなくて。
 そこを視線に射抜かれて言葉を失いかける。

「……いや、ほんとくだんないことなんだけど」
「お前がくだらないこと以外を話したことがあったか…」
「……ひ、ひどい」

 そんなにくだらないことばかり話していただろうか。
 地味に傷つきながら、ああだから、そんなことまで言わなくてよかったのに。

「……ご飯、食べてもらえないよなあって」

「………」
「………」
「………」

 沈黙が、とても、痛い。
 突き刺さるようとはこのことか。
 色々と耐え切れなくなりそうな中、先に口を開いたのは意外や意外、相手の方だった。

「……出されたものを無碍にしたりは、していないが」
「いや、えと、そうじゃなくて。……オレけっこー料理得意だから、美味しいの作ってあげられたのになあ」
「……そうか」
「……う、うん……」

 沈黙の二乗。
 本当にこれは言わなくてもよかったことな気がする。
 でも言いたいことは言っておけって言われたし、いやでも言われた結果がこれだし、もうちょっと取捨選択というものをだな。
 これ以上居た堪れない思いはしたくないので。

「……あのさ、旦那」
「何だ」
「……戻ろっか……」



 なんか思い出すと死にたくなってきた。
 いや死ぬわけにはいかないんだけど、とひとつ嘆息をして、闇の中で時計を見下ろしたならば交代時間が近づいていた。
 旦那と見張りを交代せねば、と立ち上がったところで一度硬直する。
 え、今この心持ちで旦那に会いに行くん。

 旦那に会いに行くというよりはただ単に交代するだけなんだが、なんというか物凄く、一方的に気まずい。
 なんか全力で逃げたい気分になってきたけど逃げるわけにもいかないし、というか旦那は今一人で見張りしてるわけだしなんだから、普通に急いで交代に行かなきゃいけないわけで、ああはい行きますったら!

「顔、合わせづれー……」

 でも泣き言を言うことくらいは許されるんじゃないかと思いたかった。


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