ハイデルベルクがどんな街であったかについて、ロジェの記憶は至極曖昧だった。
そもそもこの街で暮らした期間もそう長くはないし、その中で彼が自発的に外出し、外を遊び回る機会などそう頻繁であるものではなかった。
元々が家のしきたりや礼儀作法、しなくてもいいこと、しなければならないこと――あまりにも今までの暮らしとは勝手の違うそれに慣れるのに必死だったし、必要以上にひとの目を引くような真似はしたくはなかったから。
それでも最初の数年間は、機会の少ないなりに外出を、踏み締める石畳の感触を楽しんでいたように思う。
少年らしい溌剌さで見慣れぬ世界を駆け回り、目新しい一つ一つに心を震わした。
「あの子はこの家の誰よりも優秀だ。―――」
彼の人の愚鈍に全てを塗り潰されるその日までは、確かに。
目を醒ます。
眩しさが目を刺して、背中には柔らかいシーツの感触。
野営の時とは似ても似つかないそれ。
起き上がって伸びをするとばきばきと全身が鳴る音がする。
依頼を終えて旦那と別れ、宛てがわれた部屋に入るなり即座にベッドに倒れ込んだのだからそれも已む無しか。
そう厳しい依頼であったとは思わないが、連日続いたそれに知らぬうちに疲労を溜めていたのだろうと思う。
――いや、むしろ、依頼そのものというよりは、それに付随したものか。
この程度で揺らされて、いちいち昔を思い出させられる自分自身にも、どうにも腹が立つけれど。
見るなと言われて背中を向けていたから詳しい作業については見ていない。
自分の目的はあくまでも見張り番に過ぎないのだから、詳しくなる必要など一つもないのだけど、なんとなく気になってしまうのも確かではある。
でも見るなと言われたので見ない。
「終わったぞ。しばらく休めば動けるようになる。」
言われて振り向いたのならばいつも通りローブを着込んだ旦那がいて、立ち上がれはしないようだったけれどいつも通りはいつも通りで、少し安心する。
遠く在ることを恐れている。
どこに行くべきなのか分からなくなるから。
「……そういえば、街でも同じ事してるんだよな」
同じように人目を避けなければならないのではないか。
こうして野営している時よりは余程楽だろうけれど、都市ではむしろ人目が多そうで心配になったとでも言うのか。
常々余計なお世話であるとは思うのだが、このひとはどうにも、目を離すのが恐ろしい。
「やりようはある。要は人目がなければいいのだからな」
「家の中とか?」
「スラムには廃墟も多い」
そう来たか。
「持ち家もないからな。場所が選べるだけいい」
「旦那宿暮らしなの?」
「ああ」
「そか。……じゃあ、家の中では、できないもんなぁ」
「しようものなら警吏に突き出されても文句は言えん」
だよなあ、と思う。
怪しい儀式を部屋でしている客がいたら追い出されても仕方ない。自分が宿主でも追い出す。
追い出されないように気を付けないとなどと思う一方、このひとが一人でスラムに行く様子を考えるとなかなか心配になってくる。
相当心配になってくる。
……だから。
「……あのさ」
「……何だ?」
それを思いついたときはなんとなく名案に思えたのだけれど。
顔を上げて目を合わせて、その眼に射抜かれると、何やらものすごく馬鹿げたことを言い出そうとしているような気がしてきた。
「……あーいや、でも……流石にこれは……」
言うべきか言うまいか、悩みつつも言い澱む。
この前後悔したばかりだったことを考えると思い切れば良いという訳でもないように思える。
そんな風に一人悶々としていると、
「……お前はよく、言いかけてやめるのだな」
少し、意外な言葉だった。
「……そう?」
「まあ、適当な言葉で誤魔化して、言いかけたことをなかったことにされるよりはましか」
むしろそちらの方が自分の得手だと思っていた。
適当に誤魔化して、気取らせないで、そのまま有耶無耶にしてしまえば深追いはされない。
上滑りした関係の中でも、楽に生きていけるのならばそれでいいじゃないかと思っていたから。
「……なんか、なかったことにするのヤでさ。なかったことに、されるのも、ヤだけども」
あの日囁いた言葉が、真に届いたのだと確信できていれば、こんな風に考えることもなかったのだろうけど。
事実から導き出される真実は容赦を知らず、お前のことなど知ったことかとその手を離す。
「お前は、自分のことがわからないのだな」
返してくれたその笑みも、甘やかなその言葉も、信じて歩みたいのに叶わない。
「……私は人の気持ちがわからない。言われなければ気付けないから、言えるようになったら言ってくれ」
その言葉は先程のそれよりも意外だった。
一方的に同行を申し出て、割合勝手にくっついて回って、そんな風に気にかけられてはいないと思っていたから。
有り体に言えば、もっとどうでもよく思われているものだと。
「……しょ、精進します……?」
だからそんな風に言われて意外なのと、なんだか驚いたのとで混乱して、無意識に視線が下がる。
そのせいで、決定的な何かを見逃してしまったような気がする。
「それでいい」
気のせいかもしれない。
常の通りの淡々とした声で、何の感動もなく、そう言われただけかもしれない。
少なくとも自分が顔を上げて、彼の顔を正面から見遣った時には、その顔に表情らしいものを認めることはできなかった。
「……旦那、今の」
「今の?」
「顔」
「何だ?」
出来なかった、のだけれど。
「わらっ――」
た、のだろうか。
確信のないままに最後まで言い切ることができず語尾が消える。
続く言葉も見つからず黙っていると、不明瞭な態度に機嫌を損ねたようだった。
割と見慣れた、眉間の皺。
「言いたいことを言えるようにするついで、もう少し言葉を覚えてくれると助かるな」
「いや、だって見逃したし、……あーあーあー……」
「何のことだ?」
訝しむ彼を脇に頭を抱えた。
随分と勿体無いことをしてしまった気がする。
いや、気のせいかもしれないし自分の願望の結果かもしれないけれど、そうならそうで気が楽だけど。
これだから目が離せないんだ、と、これは紛れもなく言い掛りなので胸の奥にとどめておく。
彼に伝わるように言葉を作ることは、まだまだ暫く、できそうにない。
「結構経ったけど、旦那、もう動ける?」
だから話題を変えた。
純粋に既にだいぶ時間が経っていたと思うし、何かあったら呼ぶように言ってあるとはいえ護衛の仕事を放りっぱなしというのもよくない。
戻るか、と旦那が頷くので、座ったままの彼に立てるか、って手を差し出したのだが。
「いらん」
素気なく断られた。
結局のところそんなものである。
……腹が立つと言うよりは情けないだけかもしれない。
あの時言葉を呑んだ、その判断は間違っていないと信じているが。
迂闊にそんなことを提案しようものなら完全に訝しまれるとかそういうレベルでは済まなくなる。
あと、重い。
頭を冷やそう。冷たいシャワーでも浴びようと服を脱ぎ捨てる。
意外とこれが上手いこと思考をふっ飛ばしてくれるものであることを、ロジェは十分知っていた。
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