BACK NEXT TOP


6.獣の恋慕



 夕食から一人戻ると部屋は当然のように真っ暗だった。
 少しばかり気が引けて、なるべく音を立てないように静かに扉を開ける。腕の中で紙袋が鳴った。
 返事はない。

 依頼の途中に立ち寄った鉱山街である。
 途中で獣に襲われたせいもあって一日で鉱山まで辿り着くことは出来ず、冒険者に与えられた宿の一室。
 部屋に到着するや否や布団に潜り込んでしまった彼は、夕食にと呼びに来る声にも反応を示さなかった。
 疲れてるんですよ、と軽く取り成して、自分一人だけご相伴に預かったのだが。

「旦那は気分悪いしご飯いらないって言っといた」

 パンもらったよ、と紙袋を揺らす。やはり返事はない。
 自分の側の寝台灯を薄く点けはしたものの部屋は暗いままで、そもそもがあまり明るくし過ぎたら煩わしいだろうと過度の明かりを抑えた結果なのだが、それにしても暗い。
 素のままの瞳では、向かいの寝台に眠る彼の姿が全く見えないくらいには。

 返事はおろか気配もなく。
 呼吸の音すら聞こえないその中で、彼の存在すら不確かに感じられる。
 本当にそこにいるのか分からなくなる。

「……わ、」

 だから恐る恐るに近寄って、頭まで布団に被ったその姿を確認できたときは本当に驚いた。
 彼がそこにいた事実に驚かされて、その事実にやたらめたらに安堵している自分に驚かされて、
 何故こんなにも過剰な不安を抱いていたのかと自分に疑問を抱く。
 何故こんなにも安堵させられているのかと自分に疑問を抱く。

「……旦那、疲れた?」

 彼がいなくなっていたのだとしたら何か用事があって外に出ていたとただそれだけだろうし、依頼の最中なのだからそのまま戻ってこないなんてこともないだろう。
 なのに、どうして。
 馬鹿らしいくらいの不安を胸に蓄えていたのか。

 答えはない。
 返事もない。
 彼は動かない。

 旅慣れていないのだろうと結論づけて自分の寝台へと戻った。枕元のメモを取りペンを走らせる。
 "食欲がないので夕食はいらないと説明しておきました。このパンは頂いたものなので、もし良かったら"――

「……そういうお前は休まないのか」

 投げかけられた声に振り返る。
 くぐもった聞き取りづらい声だった。布団越しなのだろう、それでも彼の声。
 起こしてしまったろうか、と少し不安になる。

「旦那起きたの?」

 その質問には返答がない。
 薄明かりと対照的な暗闇を幾ら眺め見通したところで、何が返ってくる様子もない。
 なんとなく待ち惚けのような気分になって、そこで手元のパンの存在を思い出した。
 これ、と少しばかり紙袋を掲げながら、立ち上がって彼の側の机に置く。
 軽い感触、かさりと乾いた音。

「パンもらった。旦那は食欲ないからってとりあえず言っといたからさ」

 そう言って彼を振り見たところで、その顔は布団に隠されて見えないのだけれど。
 元より暗い中で無表情な彼のそれを読み取れるとは思わなかったものの、隠れてしまっていると、少しばかり寂しいような気もする。

「どうでもいい」

 突き放すように言われて、でもそれが何のことか分からなくて首を傾ぐ。
 パンのことか、それともそもそもの食欲がどうのこうのの話か。
 首を傾げたところで彼にはそれが見えないことには気付けなかった。

「……わざわざもらったのか」
「んー? まあ心配とかされたし、変にもらわないのもおかしいし」
「なるほどな……」
「そんな具合だから、まあ、食べてなくても食べたくらいは言っといたほうが多分あとあと楽」

 遠出の護衛仕事で全然食べないっていうのも普通ないじゃん、と自分の寝台に戻りながら。
 ぼすんと倒れ込んだそのベッドの、縮みきったスプリングの感触。

「協会に所属したところで、この煩わしさがなくなるわけではないのだな」

 ため息と共に呟くその声にはうんざりとした色が見え隠れしていた。

「まあ、気にしなくていいって言うならいいけど、こればっかりは仕方ないんじゃなの」

 身を起こしながら腰布の金具を外す。
 ひととの関わりがどうのこうの、といった話だったか。確かにいちいち不審がられては堪らないだろうなと思う。
 ひと付き合いはひとの根を支えるものであるけれど、ときに酷く煩わしいものにもなり得る。
 特に、彼のようにひととは決定的に隔絶した部分を持っているならば、尚更。

「人と関わるほど自分が死んでいることを思い知る」

 例えば、こういう部分とか。
 金具を外す手が止まる。暗闇の先、見えない彼の顔を見通したくなる。
 どんな顔をしているのか。
 どんな顔でそのような言葉を吐くのか。

「……しんでる」

 鸚鵡返しに顔を伏せた。
 彼は時折こうした言動を取る。
 自分が死人であるのだと、生きたひととは違うものであるのだと。

 幾度と無く突き付けられるその言葉を、未だ納得などできよう筈がなかった。
 温もりがなくとも。呼吸も、気配もなくとも。
 それでも自分は、彼が死人であるなどと、認めたくはなかった。

「でも、こうして喋れるうちは、死んでるって言いたくないよ。……死んでるって言っちゃうとさ」

 認められるはずがなかった。

「旦那が死んでるって言っちゃうと、―――」

 空虚に投げ棄てたその先は留まり切れなかった戯言に等しい。
 届いて欲しかったかどうかも分からず、けれど、今更狼狽えるのも酷くおかしな話だと思った。
 取り返しの付かない事柄を、取り返しの付かない形で話している。
 静寂に沈む暗闇に浸るのが心地よかった。

 昔から暗いところは嫌いではなかった。
 何が出てくるか分からない恐怖はあるが、それと同時に何も見なくてもいい安心感がある。
 闇に包まれて、何も見ないで、都合のいいものを懸想する。

 それは自分を呼ぶやさしい声だとか、
 触れた掌のあたたかさだとか、
 自分ではないものを眺める知らない横顔だとか、
 届かぬ言葉を紡ぎ動く柔らかい唇だとか、
 おだやかに細められた涼やかな目元だとか、
 自分を置き去りにしたそのすべてに。

 飼い馴らされた獣のように、ただ只管に慕い愛惜し恋焦がれる滑稽さを、笑うなら笑って欲しかった。


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2012 all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-