『黒猫と赤の女王亭』。
看板に揺れる名前が告げられた通りのそれであることをよく確認してからその店に足を踏み入れる。
不思議なオブジェや古びた本やらが、ごちゃごちゃと積み上げられ並べられた雑貨屋。雑然としたその店内は、けれど妙に心を落ち着かせる、そんな空気に満ちていた。
その中に静かに馴染む紅茶の香りも、きっとその一因で。
「……いらっしゃいま、……あ」
響いたベルの音に顔を上げて瞬く彼女に、掌を振って笑ってみせる。
「こんにちは、ええと……ベルベロッテさん。今、大丈夫?」
芳しさの元、透き通った紅が、彼女の手元で揺れていた。
「お誘い、……? ハロウィン、パーティ?」
「うん。今度、精霊協会の近くのレストランと広場でパーティやるらしくて」
チラシもらったんだ、と、先程彼女に手渡した紙切れを示した。
彼女は碧いひとみをこちらに向けてから俯いて、
「……懐かしい」
呟いて口元を緩めた。
「そ。パーティ。結構行ったことあるの?」
「行った事はあるけれども、……そうね、ハロウィンは子どもの時に兄さん達と一緒に」
「へえ、お兄さんと」
「とんがり帽子、被って兄さんの後ろを歩いていったの。はぐれないように」
帽子掛けに引っかかっていたとんがり帽子を手に取ると、ぽす、と頭に被ってこちらを向く。
ミステリアスな雰囲気の漂うこの店でそんな帽子を被られてしまうと、彼女が本当の魔女であるような錯覚を抱きそうになる。
であれば店に並ぶ品物は、その一つ一つが、きっと摩訶不思議な力を秘めた魔法道具だ。
そしてここは魔女の庵で、魔女はきっと、研究をしたり薬を作ったりして日を暮らしているのだろう。
戯けた夢想がいやに具体的で、自分で自分がおかしかった。
「……話が逸れたわね」
彼女が帽子を脱いだなら魔女は消える。庵は店に逆戻り、魔法道具はちからを失う。
けれど彼女はそこにいて、面を上げた碧眼の中に、自分の姿が写っている。
「誘ってくれてありがとう。ロジェ」
「ベルベロッテさんは、仮装、どうするの? 魔法使い?」
「どうしようかしら」
先程のとんがり帽子はよく似合っていたし向いているだろうと思ったのだが。
彼女の方はと言うと、帽子のつばを指でなぞり、少しばかり考え込む様子を見せた。
「……魔法使いにはもう、なってしまったのだし。仮装を観る側になろうかしら」
見透かされたのかと思った。
彼女は自分の思索した全てを分かっていて、だからそんな風に言えて、それで仮装で魔法使いになる必要なんてなくて。
馬鹿げたことだけれど、一瞬、本当に一瞬だけ。
本当に信じかけたのだ。
「……『もう』?」
「精霊術が使えるようになったから。まだ、入り口なのだけれど」
「……精霊術、」
蓋を開ければそれだけの話で誇大妄想も甚だしい。
彼女に撫でられるからくりの小鳥は、自分を笑ってくれるだろうか。
なんとなく居た堪れなく感じて、視線を掌へと落とす。
「これ、魔法なんだ」
「魔法のカテゴリに精霊術が入っていたの。私が住んでいた地域では。他の地域では違うのかもしれないけど……」
「オレのとこは、……どうだったかなあ」
指先に煌きを宿す。
物心ついた時からずっと傍にあったこの力を、魔法などとは考えたことがなかった。
ロジェにとっては精霊力は、腕力や握力とそう変わらない存在で。
当たり前にそこにあって当たり前に操るもので、
「……いつも傍にあったのね」
「あったからってどうこうできたもんでもなかったけどね」
当たり前に、いざという時に、無力だ。
指先に宿った煌きは容易く霧散し消えてゆく。
「じゃあ、仮装しないの?」
「仮装はね、いいの」
ロジェが手放し消えゆく光を、彼女は最後まで眺めていた。
「昔の話ばかりしてしまいそうだから」
返す言葉が見つからなかった。
「……そっか。じゃ、ベルベロッテさんはドレスか」
だから話を続けた。
仮装の話が本筋なのだから枝葉などは切り捨てて、楽しみだなー、なんて戯けて笑ってみせる。
その言葉に嘘はない。
「………?」
だからどうか、踏み込んだりしないで。
わたしを匿った鳥籠の、中を探すようなことはしないで。
「……え、と、……ロジェはどんな格好にするのかしら……。合わないドレス着るのも、よくないと思うのだけど」
「んー。オレは君に合う格好にするよ? エスコートするんだから! タキシードとか? 貸衣装屋さんにあるかな、それに軽く仮装くっつけるとしたらやっぱり吸血鬼?」
「………」
くす、と静かな笑み。
道化の所作の延長で大袈裟に胸に掌を当ててみせれば、彼女の口から零されたそれが、酷く心地よかった。
「じゃあ吸血鬼さんにさらわれるお嬢さん。ってイメージのドレスにするわ。エスコートしてもらえるのだし」
「やった! 楽しみだなー、ベルベロッテさんのドレス。不束者ですが頑張りますよ、なーんて」
「ありがとう。タキシード姿のロジェ、楽しみにしているわ」
踏み締めた足場の安定感。
軽妙な態度を保ち続けて、ひとから与えられる微笑を、優しい声を甘受して、
恐らくそれが紛れもない、自分の幸せであるのだと思う。
だからどうか、踏み外すことのないように。
下手を打つことのないようにと、ただそれだけを、籠の中の心は願う。
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