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9.握り締めたその先の、


――Gros bisous,
 Roger

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「……っふぅ」

 ペンを放り出して伸びをする。
 軽く近況を伝えるだけのつもりだった手紙だったが、気が付いたら随分と長くなってしまった。
 しかも一文一文を捻り出すのにやたら苦労していたので疲労感も一入だ。こうして身体を伸ばしていると、ばきばきと骨が鳴っているかのような錯覚を抱く。
 頭を悩ませただけあって、やや強引ながら伝えたいことの大半は詰め込めたと思う。全部じゃないのか、とは自分でも思うところであるが、実際のところ、手紙で伝えたい全てを伝えることなんて出来やしない。

 それでも手紙を書いたのは、それ以外に方法がないからだ。
 遠く在るあのひとと、顔を合わせて話すことなんてできないからだ。

 未だ倦怠感から抜け出せずに、ぼすりと寝台へと転がった。
 背中を受け止める感触が心地良い。
 そうして見上げた天井の色にも、この街での冒険者としての暮らしにも、そろそろ慣れてきた頃である。

 ここはロジェの間借りしている冒険者向けの下宿だ。
 特別貧しくもなく特別高級でもなく、等級としては中の下かそこらといったところか。
 必要最低限を揃えたシンプルな一室を、ロジェはそれなりに気に入っていた。

 身体を横たえたまま掌を挙げて、精霊力を指先に集めて柔らかな光と変える。
 昔――それこそ物心ついた頃からずっと、このようにして精霊力と戯れていたものだった。
 隣にあるものと遊ぶ。それがどういうものかも知らなかったけど、ただそれだけのことで。
 特にこれと言った遊び相手のいなかった幼き日のロジェにとっては、この力は、光の流れは、一種の友人であるかのように思えたのだ。

 そうして遊んでいる様子を見つけられて、驚かれたり喜ばれたりしたような記憶がある。
 最初はどうしてそんな反応をされたのか全く分からなかった。
 当たり前に傍にあって、呼び掛ければ応えてくれる。自分にとって精霊力とはそういうものだった。
 だからその反応を大袈裟と思ったけれど、それでも、喜んで貰えることが、ただただ嬉しかった。

 それがどうしてあんなことになってしまったんだろう。
 自分を見据える瞳がどんどん冷たくなっていったことを今でも覚えている。

 それは酷く幼い日の、恐ろしく遠い記憶なのだけれど。
 朧気に頭の隅に残っているその色が、あの日と寸分違わぬものである自信などはないのだけれど。
 どうしたって、嘗ては慈愛に満ちていたはずのその瞳の色を、思い出すことなどできやしない。

 それでも。
 あのひとと寄り添い愛を唱えるようなことができたなら。
 それは自分にとっては、間違いなく幸いであったのだろう。

 掌を振って光を散らした。
 馬鹿げたことを考えている。取り返しの付かないものを求めてもどうにもならないというのに。
 過去のことばかり綴った手紙を書き終えて思考が引っ張られてしまっているのだろうか。
 どちらにせよ、よくない傾向であることに間違いはない。

 身体を起こし、寝台の隣の大きな窓を開ける。
 緩やかな風が吹き込む。頬を撫でる感触が心地よい。
 その爽やかな空気を深く吸い込んで、窓からハイデルベルクの街を見下ろした。

 この街を訪れて良かったと思う。
 冒険者になれた。今までとは違う生き方ができていると思う。
 色んなひとに会い、色んなひとと色んな話ができた。
 色んなひとの、笑顔も見れた。

 ――嗚呼どうか、その笑顔の奥底に、自分という存在を少しだけでも残せていたらと。
 過去への懸想でなく、現在への希望として、ただそう願う。

 強く吹き込んだ風に結っていない髪を遊ばれる。
 ちりと耳のティアドロップが揺れて、広がる精霊力の波紋を楽しんでいたら、背後でぱさりと軽い音がした。
 紙がはためくような微かな音。
 ――紙?

 もしやと振り向くと案の定である。
 強風に煽られて、机の上に置きっ放しだった手紙が床に落ちている。
 あーあ。立ち上がって最後にもう一度伸びをすると、一枚一枚を拾い上げて封筒に収めた。

 馬鹿な物思いに耽っていないでさっさと手紙を出しに行ってしまおう。
 今回はハイデルベルクでの仕事だったから特別時間に余裕があるだけで、暇なわけでは決してないのだから。



 実を言うとロジェには手紙を書く習慣はない。
 こうして手紙を書いたのも、言ってしまえば思いつきに他ならず、従ってハイデルベルクの郵便局がどこにあるのかも把握していなかった。
 それでも適当に探せばすぐ見つかるだろうと思ったのだが。

「……何処だ一体」

 これがなかなか見つからなかった。
 自分の探し方が悪いのか、ロジェの下宿からは遠く、少し分かりづらいところにあるのか。大方そのどれかだろうが、個人的には一番最後を有力視したかった。
 ハイデルベルクを訪れてからそう長くないとはいえ、一応暇があれば適当に街を練り歩いて露店を覗き込むなりひとに話し掛けたりしているロジェである。
 郵便局を頻繁に見ることがあるのなら、その場所くらい楽に思い出せても可笑しくない筈だ。
 しかし現実として今こうして見つけられないでいる。

 そろそろ誰かに場所を訊いた方が得策だろう。
 こうして自分の足で探し回る時間も別に嫌いではないが、一応は手紙を出すという目的がある。
 どうせならさっさとそれを済ませてしまってから散策に移った方がいい。

 そう思って足を大通りへと向ける。
 適当に通りすがりのひとでも捕まえよう。それが何かの縁になれば上々だし。
 などと微妙な期待を胸にひとを探す途中で、地面に蹲る黒い姿を目の端に認めた。

 貴婦人然とした黒いドレスに、同色のシスターがするような長いヴェール。
 喪服を思わせる黒さが気にかかったがこの状況では瑣末である。
 ヴェールを深く被ってしまっている為に顔色は窺えないものの、こうして道でしゃがみ込んでいるということは具合が悪いのだと考えて間違いないのだろう。
 掌を差し出す。

「どうかしたの、大丈夫?」

 声を掛けたが反応がない。
 俯いたまま、相手の表情も未だ見えない。
 これはいよいよ医者か治癒術師かを連れて来た方がいいか、むしろこの女性を連れて行った方がいいのか。
 そう思考を巡らせたあたりで手袋越しの掌がロジェの手を取った。
 掌そのものの柔らかな感触の一方、縋るように握ってくるその力はやけに強い。

「具合が悪いんなら、誰か呼んでくるけど。それとも行きつけの医者さんとか――」

 一人の時に具合が悪くなって心細くなっているのだろうか。
 体調の悪いときは人間誰しもそうなるものだし、と自分を納得させながら女性に話しかける。
 そうして上げられた彼女の面に、

「――いる、なら」

 息が、止まった。

 ゆるく頬を流れる艶やかな長い銀髪、雪のように透き通る白い肌。
 ヴェールに覆い隠されたその下から、
 大きく見開かれた、赤い赤い美しい瞳が、

「―――」

 形の良い紅唇が震える。
 凍り付いた世界の中で、スローモーションがかかったように緩慢に動いて、
 その唇がなぞる先を、最後まで見届けることなど、出来はしなかった。

 掌が離れる。足が石畳を蹴り駆け抜ける。
 ――その場から、そのひとから、逃げ出す。

「――ロジェ」



 ――嘘だ。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。
 早鐘を打つ心臓は休みを求めて悲鳴を上げて、
 けれどそれ以上にその深く、奥底にある心が叫んでいる。

 どうして。どうして今、どうしてこんなところで、どうしてあなたと。
 撹拌されて渦巻く思考じゃ問いばかりが忙しなく、答えなどどこにも見つかりはしない。
 ただ遠くへ遠くへと、心に従い心を無視して。
 足ばかりは留まり知らず、機械仕掛けのようにくるくる回る。

「――はッ、ぁ」

 けれどひとの身、やがては限界。
 耐え切れずに膝を付き、身体の重さに頽れる。

 そうして蹲るその様が、彼女のそれと酷似していることに、気付ける者などいなかった。


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