赤い字の刻まれた石 見たこともない字
自分の手紙も戻ってきた うーん ちょっと残念
あとカラのボトル? これは一体なんだろう
よく覚えていない
真面目に日記を書こうと思ったので真面目に書こうと思う
とは言え何を書くべきやらという感じ
海に来てもう十日になる その間のことはちゃんと覚えている
一回やり損ねをしたこととか ディドを怒らせたこととか
うーん難しい
結局書くこともあんまりないのだ
☆ ★ ☆
目を覚ます。
カーテンの隙間から射し込む光が眩しい。太陽の光だ。海の上でも変わらず生き物を照らし導くもの。
時計を見ると、いつもより少し、早い時刻だった。
幾らか考え込んでから、うん、一人頷いて再び枕に顔を埋める。眠りがもたらす幸福をクロニカはよくよく知っていた。
なので、だから、二度寝を決め込もうと枕に頬を擦り寄せたところで耳に届いた不吉な音だって、できれば聞こえなかったフリをしたかったのだ。
「……枕カバーッスか?」
軍帽の下で赤い瞳を瞬かせたのは、クロニカが宿を取っている艦艇――フヴェズルング級巡洋艦四番艦ミドガルズオルムの副艦長であるフリードリヒだ。緩くウェーブのかかった髪を払い、差し出された白い布を手に取る。
それは見るも哀れな枕カバーであった。派手に引き裂かれて大穴が空いている。
「えーと……わざとじゃない、ん、だけど」
「それはまぁ、顔を見れば分かりますけど。派手にやったもんスね、これは」
「たいへんもうしわけない……」
縮こまるクロニカに彼は、まあまあ、といつもの柔和な笑みを浮かべてみせた。
不慮の事故である。クロニカはそう主張するし、その主張に嘘はなかった。
「大変ッスね、角があると」
「うー。しばらくやらかさなかった、から。……油断をしていた……」
頭の左側に一本だけ生えた角に指を添え、クロニカは渋面を作って唸った。
つまりはそういうことだった。
寝直すと枕に顔を埋め、何の気なしに首を捻ったところで枕カバーに引っかかった角が思い切りよくその薄布を切り裂いてしまったのだ。
慌てて顔を上げたところで後の祭り。どころかさらに穴を広げてしまう結果となり、枕には傷が残っていなかったのがせめてもの幸いといったところか。
「弁償とかは、えーと……どういった感じで……」
「弁償? 別にいいッスよ、そんな高価なものでもないですし」
「うえ」
変な声を上げて目を瞬いたクロニカを、フリードリヒはなんスかそれ、とおかしげに笑い飛ばして。
「え。だって、ただでさえただで泊まってる」
「ただだけに? ちゃんと報告書は貰ってますし、そこは気にしなくていいとこッスよ」
「報告書……」
「ギブアンドテイク。ちゃんと成り立ってますから。だから大丈夫、気にしないでください」
「……にしても、報告書? だけのために、衣食住用意してやるってのは、なんていうか……コストパフォーマンス? に見合わないような」
宿代というものは相応にかかるものであったし、食事代もまた然りで、どう考えても採算は取れていないと思うのだが。
両腕にリネン類を抱えたクロニカは首を傾げた。せめてもの償いとして何か手伝えることがないか尋ねたのだ。
「衣食住の衣は用意した覚えはないッスけどね。ま、こっちにも事情があるんスよ」
「事情」
同じく腕いっぱいにリネンを抱えたフリードリヒは、あ、洗濯場はこっちッス、あらぬ方向に向かいかけたクロニカを誘導してから言葉を続ける。
「クロニカさんだって、事情があってあのディドさんに雇われてるわけッスよね?」
「うーん……。まあ事情……」
「それと同じッス。探索者って時点でそこそこ儲かるだろうに、わざわざ他人に雇われる必要はないんじゃないかって思ったりしますからね」
「それは血が」
「血?」
「……うーんと、確かに事情」
事情。繰り返して頷くクロニカに、でしょうと彼は二度頷いて。
「だから、そんなに気にしなくていいんスよ。破っちゃったことも。こっちはこっちで仕事でやってます。慈善事業じゃないんスから」
「そうなのか。……給料、出てる?」
「で、出てますよ、だから仕事なんスってば」
リネンを収集ラックに放り込みながらとんでもないことを訊くクロニカである。フリードリヒの答えに、それならと得心。
「安心して言葉に甘えることにする」
「それは良かったッス。あんまり増えすぎても困りますけど、やっぱり人がいるに越したことはないッスからね」
「そうなのか。……でもずっといる保証はできないけど」
「まあ、それはそれで仕方ないッスね」
「うん」
クロニカはディドのことを思い返す。彼は、この艦艇をあまり気に入っていないように感じた。
正しく言うと、この艦艇を、というのともまた違う感じがするのだが。何が気に入らないのかはクロニカにはよく分からない。
しかし探索に失敗し、収入もなく、出費を切り詰めねばならぬと世話になることを決めたあの時から、何かどこか不服の気配を漂わせている。確信は持てないがクロニカはそのように感じた。
クロニカも馬鹿ではないから、わざわざそこを問い詰めて機嫌を損ねることはしないでいたが。
最終的にはディドが決めることだった。ミドガルズオルムでの宿泊を続けるかも、新たな宿を探すかも。
「はい、クロニカ君」
「? これは」
「替えのシーツと枕カバーッスよ。自分とこのベッドメイクまで、お願いします」
「…………」
「……クロニカ君?」
「えーと、……がんばる。……ます」
「……まあ、一応ちゃんとこっちでもチェックしますんで……。そんな気を張らずにどうぞ」
そして、ディドの決断を受けてどうするか決める権利が、クロニカにもある。
それくらいのことは、どうにか理解できるようになっていた。