-DAY13-


 瓶に詰められた白い粉 舐めたらしょっぱかった 海の味
 前流したことがあったような気がする

 あとなんか蛇に会った
 なんか わかんないけど 何かが何かに変わるって言ってた
 なんだっけ なんかすごく名前の何かに
 詳しいことを聞く前に消えてしまったのでよくわからない

 この前水を飲もうとしたらなんかよくわからない甘い液に変わったからそれだろうか
 三回くらいあった それで終わった
 甘くておいしかった 桃色をした濁った液
 また飲みたいけどどうすれば作れるのか分からないしなんだったのかもわからない

 一期一会というやつだ たぶん

 真面目に書こうとして二日目で飽きてきた
 というか 真面目か? これ



☆ ★ ☆



「明日、ねぐらを移す」

 この雇い主はいつも唐突にものを言い出す。
 最近のディドは血の提供にどうこう言わなくなった。文句も言わず腕を切って、器に注ぐ。
 そしてクロニカに塞がせる。ディド本人が癒しの術を覚えてからもそれはクロニカの仕事だった。

「ねぐら」
「ここを発つ、と言っている」
「新しいところに行くのか?」
「ああ」

 ディドに与えられた部屋も、内装も何も、クロニカの部屋と大差ない。私物が多少少ないくらいだ。クロニカだって多少の蒐集品があるだけで多くはないから、やはり、大差はない。
 その床にぺたりと座り込み、与えられた血を杯から飲み干しながら、この船を出て行く。ぼんやりとそれを諒解する。
 相変わらず血が美味に感じられることはない。不味いものは不味い。それはずっと変わらないことだった。ディドが内心の正直なところでは血の提供を嫌がっているのと同じだ。
 つまり、よりましな手段を求めてこうしている。

「報告書とやらも終わりだ」
「そうなのか」

 このフヴェズルング級巡洋艦四番艦ミドガルズオルムでは、宿泊や食事の提供に金銭を求めない代わりにテリメインでの活動報告が要求された。ディドは読み書きができないため、その仕事はクロニカが請け負っていたものだったが。
 温和な副艦長の顔が脳裏を過ぎる。昨日の今日のことだ。

「……破るだけ破って逃げてしまった……」
「何かしたのか」

 ぼそりと密かに零されたクロニカの呟きを意外にも拾ってくる雇い主である。一応責任を取る立場であると考えているのだろうか。
 枕シーツが、角に、引っかかって、身振り手振りを交えて説明するクロニカの角を、相変わらず荒涼の色を漂わす瞳で眺める。暫しの沈黙ののち。

「弁償はしたのか」
「別にこれくらいいいって言われた……」

 手伝いはした、シーツ運んだ、ふわふわと付け加えられた補足に興味があるのかないのか、

「ならいい」

 それだけ返して視線を逸らした。クロニカはとりあえず咎められなかったことに安心する。
 何事か言いたいことがあったような気もしたが、こういうときの思いつきはだいたいろくなことにならないことを経験則で理解し始めていた。いい子にして黙る。
 代わりに気になっていたことを訊く。

「次の場所。アテはあるのか?」
「話はもうつけてある……」
「ふうん」

 少し意外だった。

「安いところか?」
「まだ、そうだ。……だが、対価は金だ」

 金。
 零された単語にまじまじとディドの顔を見る。
 仮宿をこの艦艇に定めた時から、なんとなく、不平や不満は感じていた。それは気配だとか感情の静かな揺らめきから察せられるもので、しかし根源までは読み取れなかったが。

「金を払いたかったのか?」
「払いたいわけじゃねえ」

 語弊を生みかねないクロニカの問いを、しかしディドは正しく切って捨てた。

「ただ、施しを受けるのはごめんだ」
「施し」

 そうだ。彼は肯定する。
 施し。恵み。与えられるもの。見返りなく降り注ぐもの。
 この仮宿をディドはそう表現した。

「……なんか払ってた方が、安心する?」
「払わずにいるよりはな。確かな契約だ」

 要するに気に入らない様子を見せていたのはそういうことか。
 クロニカと結んだ契約関係と同じように、正当な――自分納得できるだけの対価を支払って得たもの、与えられたものにこそ信を置ける。
 良くも悪くも、左右の釣り合いを取りたがる。
 潔癖だと思った。しかしクロニカにとっては都合がいい。

「じゃあ、これからは遠慮なくもらうことにする」

 それはつまりディドがどう思っていようとも、契約を盾に正当な権利として血液を要求していいということだ。
 実際、この”飢え”に襲われれば生産性は落ちる。ディドとしても望まないことだろう。何も気兼ねする必要がないのはありがたいことだ。
 そう思って宣言したクロニカを、ディドは何やら驚いた様子で――ディドがこのような素直な感情を顔に出すのは珍しい――見下ろした。

「…………遠慮があったのか?」
「…………少しは…………」
「金だけに切り替えてもいいが」
「え、いやだ。それだとついていかない」

 最近は実入りがよくなってきたからそんなことを言い出したのだろうが、クロニカは即答だった。首を振る。
 ついていかない、というか、

「いけない」

 この働きも、貢献も。結局は与えられるものがあってこそだ。
 ――身体が重い。何一つ思考が回らず心の動きすらも追いつかない。生き物の、気配だけ、欲を誘うものの存在だけが皮膚を刺して誘惑するのに、錘があってはどうしても行けない。魂を閉じ込める肉体が厭わしくなるのに、それに頼らなければ生きていけない。
 中途半端だった。この身体は。矛盾だらけでうまく噛み合わない。
 故郷での暮らしの頃は、役割を果たしていた頃は、そんなことはなかったのに。

 クロニカがきっぱりと見せた拒否もディドには予測できていたらしい。
 分かっている、と軽く返される。

「なら、少しはマシに言い訳を言えるようになっておけ」
「言い訳」
「血を求める理由を」
「…………」

 言い訳。
 説明をしろ、というのではなく、言い訳と来た。今更事実になど興味がないとでも言うのだろうか。
 あるいは、薄々察されているか。どちらにせよ長く隠し続けられることではなかったかもしれない。
 となればこれは遠回しな拒否となるか。あの日頑なに問い詰めたクロニカの本当よりも、本当に求めるよりも、今のままの方がいいという。
 血で、というオーダー。クロニカとしては、都合がいいのやら悪いのやら。
 よく分からなかった。

「……いっそ食べ物って言ったほうがいいのか」
「血以外のものを食べていて言い訳が立つならな」
「…………」

 腕を組む。クロニカにとって、血は、間違いなく食べ物ではない。飲み物ですらない。どちらかというと薬という表現が近い気がする。適切に摂取されるべきものの一種。食事では摂れないから、別の手段で飢えを凌ぐ。
 何よりその理由を、クロニカ本人がそういうものとしか理解していない。クロニカの素質を見出したらしい人がそのように理解して、そう生まれたから、そう或るべき役目に就いた。その生活の中では特別に得る必要がなかったから当たり前に暮らせた。今は叶わないから血で求めている。
 というのを、分かりやすく、納得されるように説明するには、過程と具体があまりにも抜け落ちている。

 例えば、クロニカに課せられていた役割だとか。
 例えば、それが今どうして、何が欠けて、血を求めねばならなくなったのだとか。
 例えば、そう生まれついた、根本的な。

 全部言うのは面倒くさいし、分からないこともあるし、言わない方がいいようなことも多分多い。
 言い訳。うまい言い訳。思索の海に浸りかけてやっと、果たしてここがディドに割り当てられた部屋であることを思い出す。自分の部屋ではない。

「……考える」

 持ち帰る。そうした方がいい。別に今言い訳を求められたわけではないのだ。言えるようになっておけ、というだけで。
 ディドは、そうしろ、と相変わらず素っ気なかった。

「ほかで雇われる時に面倒にならないように」

 視線はとうにクロニカを外れて壁を向いている。ディドはよくそうしていた。
 そうして彼が何を見ているのかは知らない。クロニカには視えず、理解できない。
 その必要も特には感じなかった。