生きるためには金が要る、ということは、頭では理解していたが、身に沁みて理解したのはテリメインに来てからだった。
郷里にいたころは、金はおろか自分の所有物というものさえ存在していなかった。そもそも、己の命自体が他人が金を払って手に入れた財産であって、身に着けているものひとつとってもその他人のものだった。
その代わりに与えられていたものといえば、徒に命が奪われることはないという保障であり、水や食料だった。自由や芸と引き換えに命を買っていた、とも言えるけれど、選択肢が存在していなかった以上、正当な取引だったとは言えまい。
なんにせよ、郷里で自分が金に直接かかわったのはただの一度だけ、親から売り払われた時だけだった。
一方で、この藍色の海ではあらゆるものに金がかかる――――と思っていたのも、つい先日までのことだ。
未開地域の調査に失敗し、這う這うの体で帰ってきたディドたちの手に残されていたのは、収入を当て込んで買い込んだスキルストーンやチェーンジェム、それから僅かばかり残った金だけだ。
今まで利用していた宿に泊まり続けることは、少しの間ならばできないことはなかったけれど、そんな余裕がないことは分かっていた。切り詰める必要がある。
必要がある、となって探してみれば見つかるものだ。ディドたちが次の拠点と定めたのは、格安ですらない無償の宿だった。潮風を防ぐ家屋があり、濡れていない足場があり、粗末ではあるものの寝床も用意されている。手狭ではあったけれど個室であり、鍵もついていた。あるいは、施しの類なのかも知れない。
都合のいい場所を見つけた、とも思ったが、こういったところを利用しなければならないのは面白くなかった。
見通しが甘かった、調査に失敗した、であるから、施しを受けられる場所を探して与えられるものを受け止めるしかないのは当然の帰結ではある。だが、与えられるままでは、郷里で腐っていたころと変わらない。ならば、次は、うまくやらねばなるまい。
「俺はクビというやつか?」
……そう思っていたところに、唐突にそんなことを言い出したのがクロニカである。
天井の低い部屋は人が二人も入れば窮屈さを感じさせる。部屋には寝台が一つしかなく、ひとり一部屋の計算で区分けされていた。
クロニカはディドが使うはずの部屋で寝台に勝手に腰かけ、首をかしげて無表情にこちらを見上げている。
落ち込むでも、恐れるでもない。言葉とは裏腹の気軽さに、何を言っているのか一瞬理解できずに、ディドは沈黙したまま相手を見返した。
(……クビ?)
決められた形式に則ったわけではない粗雑な雇用関係の、数少ない契約内容を思い出しながら、ディドはクロニカの言った言葉と何とか結びつけようとする。
だが、その作業が無駄であることはやる前から分かっていた。しくじればすぐに解雇する、というような――条項は、互いにつけた覚えがない。
「役目を十分に果たせなかった。遺跡探索の、……露払い、と、探索を手伝うために、雇われている、はずだろう」
それは、そうだ。
「そのために金と、ディドがあんなに嫌がる、血を貰っている」
「……自分がそれほど期待されていたと思っているのか?」
相手の言葉を咀嚼してから、考えたことを思わずそのまま吐き出して、ディドは口を噤む。
この男を雇用するために支払っている金は、相場よりもかなり少額だ。行き倒れているところを拾って雇った、という時点で、スキルストーンさえ使えればそれでいい、程度の期待しかしていなかった。
血を必要としている、という条件が加わった時もそれは大して変わっていない。胡乱な奴が面倒なことを言い出した、と思ったぐらいだ。
それを――
「……違う? 戦い、えーと、焼く方。吹っ飛ばす。そっちが仕事。十分にできなかった」
暢気とさえ言える顔で述べ立て、首を捻っているこの男に説明する方が、はるかに割に合わない、と感じる。
「仕事ができないのならば、そうなると思った」
相変わらずあいまいな口調で言って、クロニカは首を捻っている。
ディドは舌打ちした。
「お前に払った金以上の期待はしていない。こんなものだろう」
「ディド?」
「そんなことを言っている暇があったら、次のことを考えろ」
「次」
「次だ。働け」
クロニカの表情がわずかに動く。驚いているのだろうか。分かっているのかいないのか、表情からは読み解けない。
「……分かった。働く」
だが、一応の納得はしたようだ。ゆるゆると頷き、血もまた欲しい、と付け加える。賃金を減らしてやればよかったかも知れない、と思いながら、ディドは視線を逸らす。今まで使っていた宿とは違う、見慣れない壁があった。
「話はそれだけか」
「? ん。それだけ。他に何かしたほうがいいか?」
クロニカの声音はあくまで淡々としていた。解雇の危機を逃れて――そもそも、そんなものは杞憂だったのだが――ほっとしているわけでもない。何を考えているのか、どういう理で動いているのか、読み解けはしない。
「……ない。また同じ場所へ行く。次はしくじるな」
「うん。次は、たぶん大丈夫」
「なら、さっさと戻れ」
それで話は終わりだった。クロニカは占拠していた寝台からようよう立ち上がり、さっさと出て行こうとする。
その足音がぴたりと止まる。
「次」
クロニカの声に、ディドはクロニカの方へ目を向けた。
相変わらず、何を考えているのか分からない顔をしている。何も考えていないのかも知れない。どういった理で動いているのか、読み解けはしない。
「ちゃんと出来たら血が欲しい。がんばる」
それだけ言って、クロニカは背を向けて部屋から出ていく。
扉が閉まるのを待たずに視線を逸らして、ディドはまた壁を見やった。