11.だれの

 眩しいと、思った。







 目を醒ます。
 瞳を照らしていたのは暖かな日光。
 次に目に入ったのは古びた木目の天井と、

「……あ、起きた?」

 傍らから覗き込む子どもの顔。

 緩やかで淡い金髪を揺らして、その奥の翡翠の瞳を安堵に細めてみせる。
 前に話したことがあった。
 当てもなく一人彷徨っていた、寄る辺を求めるような――

「よかった……。心配したんだ」

 そうだ、フローラ。フロレンス・リリーアンと名乗っていた。
 煤けた部屋にはとても似合わぬ、きらびやかな衣を纏った子ども。

「だいじょうぶ? 痛いところない? 苦しかったりは?」
「……特段、そういったことは」
「おや。目覚めたのかい?」

 遮るよう、声が聞こえた。
 花冠が視線を向けた先では糸目の男の引戸から顔を覗かせていた。
 不敵なような何も考えていないような、なんとも評し難い笑みを浮かべている。

「怪我は……なかったんだったか。いや、それにしても驚いた。一体何をしてきたんだい?」
「……何を?」
「何にせよ元気そうでめでたい。タイガーも喜ぶだろう」

 よかったよかった、などと穏やかな声で繰り返している。
 それから、ああ、と何かに気付いた様子で表情を曇らせた。

「だが残念なことに、タイガーは暫く戻って来られそうにない。モテモテだな。羨ましい」
「タイガーさん、まだ農作業を手伝ってるの?」
「ああ。俺も手伝おうかと思ったが、タイガーがあまりにも人気でな。悔しくなって料理を作っていた。……とはいえ、喜びは分かち合うべきものだ。俺がタイガーとこの家の人に知らせて来よう」

 男はそう言い残して引戸を閉じた――かと思ったら、再び顔を出して、

「家の人にちゃんとお礼を言うんだぞ。俺の方は別に構わないが、その分”なんでもない屋”を贔屓に頼む」

 その言葉を最後に、今度こそ去っていった。



「……驚いた、というのは」
「え? ……あ、覚えてないのかな」

 花冠の疑問に、フローラは瞳を瞬かせて答えた。
 長い睫毛がきらりと光る。

「花冠さん、ぼくが見つけたときは血だらけだったんだよ。ぼく、びっくりしちゃって……」

 当時の驚愕を思い起こしてか、憂わしい顔で拳を握り締める。

「それで近くにいたあの人たちにお願いして、このおうちに運んでもらったの」
「そうか。それは、世話をかけたな」

 花冠の言葉に対し、フローラは、ううん、と首を振って、しかし表情の憂いはそのままに。

「花冠さん、もうちょっと休んだ方がいいと思うの。怪我はなくとも、倒れてたんだもの」
「身体に不調は感じないが」
「それでも。急に動いたら、危ないかもしれないでしょう?」

 ほら、と頭にまで掛布を被せられて沈黙する。
 それを胸元まで下げながら、花冠は男とフローラの言葉の中にひとつ、不審な点を見つけた。



「……俺の傷は、癒えていたか?」
「え?」



 そうか。
 一人呟いて瞼を伏せた。




 ――あれに負わせた傷は、まだ癒えてはいないだろう。







************ * * *  *   *        *







 けものの咆哮が聞こえる。



 駆ける、駆ける、駆ける。
 木々の間を掻い潜り、枝葉で服を肌を割かれながら疾走し続ける。
 自らの穿った傷口から血を落としながら、それでも尚、重ねて白刃で抉り込む。
 脇腹に走る痛みに安堵し、少しだけ、忘れてしまう。
 おそろしいものを忘れてしまう。

 そう、恐ろしかったのだ。
 だからこうして逃げ出した。
 だからこうして逃げている。
 それの手の届かぬところへ、それに手が届かぬように、ひたすらにただ逃げ続けている。



 ――自らの傷つけるそれが、何よりひどく、おそろしいから。



 それを恐れてがむしゃらに走り続けている。
 遠くへ、少しでも早く遠くへと。
 灼き切れそうに掻き回されて見失ってしまいそうな意識を、刃の激痛で繋ぎ止めながら、一歩でも遠くへと願って縋って。

 やがて血潮を流し果て、体力も気力も精神力も尽き、刀を握る感触すら曖昧になる。
 視界が歪み平衡感覚すら乱れて、今の自分が何処に向かっているのか、何を求めているのかも分からなくなる。

 だが、そんなものは最初から見失ってしまっていたのだ。

「――ぐッ、あ!」

 正面から木に突っ込んで全身を打つ。
 痛みと衝撃に脚が縺れ、倒れ込みそうになる身体を既の所で立て直し、また地を蹴る。
 ひた走る。遁走する。無様であっても構わない。ただただ彼らに、この手がもう届かぬように。
 あなたの手が届かぬようにと。



 ――何をそんなに恐れるのか。
 在るべきものが在るべきかたちへ収まりゆく、それだけの話であるはずなのに。
 どうしてこんなにも恐ろしいのか。

 それはお前が今や  でないからだ。





「がっ……」

 何度目だったろうか。
 逞しい大樹へと身体を打ち当てたなら、最早体勢を保つことは叶わなかった。
 倒れ込んだ勢いで刃が肉を断つ。それが意識を覚醒させた。
 耳元に吼える叫声を聞く。

 あるいは囁くがごと、手招くそれは喚呼か。

 地を蹲りながら首を振る。拒否する拒絶するお前など受け容れない。
 息を切らして喉が鳴る。掠れた喘ぎを圧し堪え、呼吸さえ断って悲鳴を殺す。
 色を失った顔を上向け、幹に掌をかけしがみつき、無理矢理に身体を引きずり上げる。



 ――ばきり、



 疾うに限界は訪れ来ていた。
 早く認めてしまうべきだった。

 それが出来なかったのは、

「ぁ――」

 再びに身体が傾ぐ。
 頽れながら刃を握る。最後の寄す処と願うがごとく、強く強く握り締める。



 ――一際大きく、音が鳴った。





「――あああああああああああああああああああ!!!」



 それがお前の本質であると、伸ばされた掌を斬り落とした。












*** *  *












 そこは静寂に包まれていた。
 森であるのに、多くの鳥獣やそれにすら属さない異形の住処とされる地である筈なのに、生命の気配を全く感じられない。
 木の葉擦れの音さえ遠慮がちに控えめだった。
 無音の中、ひとひら、舞い落つ。

 森閑を荒らす異邦の存在は、その中ではひどく際立った。
 振り返る。朱に染まった外套が重く揺らめく。
 瞳はそれを捉える。



「花冠!」



 ざわめき、ゆらぎ、さんざめく。
 それらが我先にと奏でる警告を異邦者は気にも留めない。
 赤髪を振り乱し、それは彼へと近づく。

 一歩、引いた。

「花冠、探したぞ! その血はどうした!? 貴様の血か!?」

 叫び声が森を裂く。
 立ち去れ。遠く在れ。お前はここにいてはならない。
 その全てを、それを無視した。
 だからいいかと思ったのだ。

「……フィンヴェナハ。丁度いい」

 刀を抜いた。僅かばかり残った血の痕は、深く落ちる蔭が隠してくれる。
 服を染め上げたそればかりはどうしようもないが。

「貴様のことだ、深手では無いだろう。だが、具合は見せてみろ――」
「手合わせをしよう。――久方ぶりになろう」
「手合わせだと? それより、先にすることがあるだろう」

 切っ先を向けた先、それは、荷物を抱えたまま立ち惚けてがなる。
 懐かしい笠のそのかたちは最早なんの想起を彼に齎しはしない。ただ、そこに在るだけだった。
 ――ああ、ああ、喧しい。

「いいから、まずは身体を――」

 だからその言葉を斬り裂く。
 刃で払って、頬を裂く。
 赤い色が落ちる。
 その肩を濡らしていく。

 真朱には程遠い。

「貴様……。憑き物にでも遭ったか」
「――憑き物、な。上手いことを言う」

 荷を落としたフィンヴェナハの胸元を、柄で叩いて突き飛ばす。
 受け身を取ったそれがこちらを睨む。

 ――それは今更だ。
 お前は端から告げられていた筈だったろう。この身体が宿すモノを、この身体の根源を。
 そんな事も忘れて、彼に触れられるとでも思ったのか。
 そうであるならばそれはこの上なく愚鈍な選択だ。
 嘲笑う。嗤う嗤う嗤う。

「日和ったか。あまり待たせるなよ、フィンヴェナハ」

 愚か者が。

「……貴様から挑まれる日があるとはな」

 吐き捨てたそれが刀を抜く。
 そうだ。それでいい。
 お前はそう在り続ければいい。

「ならば、力づくで祓わせて貰うぞ」

 ひとつ、息を吐く。





 大きく一歩を踏み込む。その身の内に潜り込み斬り払った一撃を受け流される。
 逆らわず流れに乗せて身体を転がし、襲い来た体当たりを回避。一度だけ転がり片手を付き、フィンヴェナハの足を払い崩し落とす。

 視線はこちらを向いている。頓着しない。
 地を蹴り躍りかかり利き腕を掴んで、仰向けのその体を抑え込む。
 接触。

 掴んだ腕に抵抗の兆し。こちらの利き腕も掴まれて拮抗状態。
 惑いを拭い切れぬその瞳の色を見遣る。
 この期に及んで巫山戯た話だ。

 両腕を放す。フィンヴェナハも腕も、自らの刀も同様に。
 さくり地に突き立った刀を無視し、自由になった利き手はフィンヴェナハの喉を目指す。

「随分と荒々しいじゃないか……」

 ――違う。

 突然に覚醒された意識に遅れて痛みが押し寄せた。
 小さく舌を打つ。掴まれた腕を振り解いて、刀を拾ってフィンヴェナハの上から退いた。
 距離を取る。

「粗い戦いだな、貴様らしくもない」
「お前には負ける」
「また罠でも構えて、待ち構えていたのかと思ったぞ」

 遅れて起き上がったフィンヴェナハが刀を構える。
 自分を倣い、少しずつ上達し始めてはいるがまだまだ隙だらけの構えだ。
 長らく身に染み付いてきた力任せの悪癖はそう簡単には消えてくれないらしい。

 狩り取る術は幾らでも。
 命を絶つ為の手順が容易く頭に想像できる。

 その実行を許さない。

 こちらが動かないのを見て取ったか、フィンヴェナハが距離を詰め刀を下ろす。
 大振りな斬撃を体軸をずらすだけの動作で回避し、刀の代わりに腕でその喉を刈る。
 首は飛ばない。この一撃は命を裂かない。だからいくらでも力を込めていい。
 死なない。死なせない。
 殺さない。
 これは手合わせだと本能に命ずる。

 フィンヴェナハの片腕が刀から離れる。
 その隙を見逃さず柄で手首を強打し落とさせ、肩を抑えて組み伏せる。
 再びの伸し掛かる体勢。押し留めようと伸びる両腕。
 強かに打ち付けられたフィンヴェナハの腕に力がない。肩を掴まれようとも、花冠を静止するには遠く及ばない。
 もう一方を刃で牽制されたならば、尚の事。

「花冠、貴様……やはり口から血が……」

 無力を悟ったか肩から手を離し、その代わりにと頬へと指が伸ばされる。
 血の跡を撫ぜられる。頬を触れられる。
 身体がざわめく。

 自らの刃を押し留め、大きく深く、息を吐く。
 遠ざける。



「……俺の勝ちだな」



 呻くような声で花冠は言った。
 早々にフィンヴェナハから離れ背を向ける。
 フィンヴェナハも同様に立ち上がり、花冠を見た。
 懇願するような視線。

「それより貴様の具合を見せてみろ、それは貴様の血だろう」

 聞かない。
 怪我のないことくらい、あの動きを見遣れば分かることだろうに。
 剣戟の中に傷が混在し得ないことなど一目瞭然だったろうに、お前の目はそこまで曇ってしまったのか。

「……お前は」

 刀を収めて身を引いた。

「俺を、殺せないのか」

 動じずフィンヴェナハが詰め寄る。
 花冠が引いた以上に大きく。

「貴様を殺してどうする。元より貴様は、死ぬ人間だろう。――そう自分で言ったではないか」

 そう、死ぬ人間だ。
 だからお前に殺される。
 だからお前に殺され得る。

 その事実のなんと得難いことか。
 その事実の、なんと、――――。

 感ぜられたのはなんだったか。
 どうしようもないことだった。
 どうすることもできず、叶わず、抗えど無力を痛感するばかりで。

「また逃げようとしても、そうは行かんぞ……」

 ――背後に気配。
 囚えようと腕が伸びる。触れようとする。
 これを掴まえ、我が物とせんと――



『――花冠よ、我がものとなれ』



「――――ッ」

 腕は刀を抜いていた。
 反射的に振り抜き向けた刀が肉を貫き近付こうとする身体を止める。
 鮮血が溢れ、返り血が新しく頬を濡らす。穢らわしいと果てが思う。

 だが引かない。
 それでも尚迫り来る。お前の姿がそこに在る。
 肩を穿たれ、骨を削られようとも足を留めず、迷いなく来たる者がいる。

「貴様、死ぬ気か……」

 それを殺すのは簡単だった。
 隙があるだとか、無防備であるだとか、そういった問題では最早ない。
 凶器を向けられ尚、身体を断たれても尚、省みる様子が全く見られない。それは生物としては全く以て不自然なことだった。
 本能に抗っている。理性で。意識で。

 であればその望むまま。
 腕に力を込め、その身を、袈裟斬りに断ち斬る。

 俺はお前を殺せるのだ。




 フィンヴェナハが吹き飛び地を転がる。
 花冠は振り上げた足を下ろし、汚れた刀を鞘へと収めた。

「――頭を冷やせ。俺は、死ぬつもりはない」
「……ッ、なら、具合を見せてみろ……」

 強かに蹴り付けられた腹部を抑え、苦しげな声を絞り出す。
 返答などするまでもない。
 これには何を言っても意味がない。
 平行線を辿るだけで交わらない。

 届かないからと諦めて、フィンヴェナハに背を向けてその場を去った。
 追い縋る声が聞こえる。傷を押して走る身体は鈍い。
 だから振り切ることなど容易かった。





 いつしか森は静寂を失っていた。
 獣が跳ね、鳥が鳴き、風に揺られて木々がざわめく。
 当たり前に息吹が根付き、木の葉が落ちてかさりと音が鳴った。

 獣が鳴く、声がする。

 それが喧しいと振り払う。
 応じて意識は手を離れ遠退き、血塗れの身体が傾いた。
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