12.てのひらのいろ

 闇を駆ける。
 ただ逃れるがため一人きり、どこまでも、どこまでへも。







 シズ・クローチェは深い森の中を一人駆けていた。
 走り続けて息は上がり膝は笑い、流れる汗が頬を伝って鬱陶しい。
 それでも足を止める訳にはいかなかった。

 振り返る暇などない。
 シズの背後ではホワイトタイガーが牙を剥いているのだから。



 森を探索している時に、ホワイトタイガーの群れに遭遇してしまったのが発端だった。
 獰猛な獣の群れは戦い慣れてきたルカとアリシアであっても手に余る脅威となる。
 抗戦の最中、二人の邪魔にならぬようにと下がっていたシズにまでその爪が向かうほど。
 すんでのところでルカが一撃を受け止めたがホワイトタイガーの追撃は止まらなかった。むしろ激しさを増して、今度こそ肉を裂かんと虎が集まって。

 ――アリシアとルカとこうして三人で行動するのは久しぶりだった。
 少し前まではコトカやミハウが同行していたし、それより前は、二人の大人がいた。
 だから、自分が二人にとってさえあまりにも足手まといであることを、少し忘れてしまっていたのかもしれない。

 逃げろとルカの叫び声、泣き叫ぶようなアリシアのそれ、エティエンヌの声は相変わらず耳障りで、ホワイトタイガーの唸り声が恐ろしくて、ただ足を動かさなければと、
 リフレイン、リフレイン、フラッシュバック。
 繰り返し脳裏を過ぎる光景になど構っていられない。



「うぁッ……!」

 転ぶ。何か木の根にでも足を取られたか、確認している暇はない。
 ただ少しでも早く、起き上がって、遠くに、

 ――遅い。
 獣の咆哮に背中を叩かれ、引き摺られるようにして振り向く。
 白い巨体はすぐ近く。
 あと少し、一飛びで詰められる距離。

「……っ、アンテ!」

 その名を叫んだのは殆ど反射に近かった。
 呼応してシズを守るように障壁が形成され、ホワイトタイガーの爪を受け止める。
 がり、と、凶悪な爪が空へと食い込んでいく。

 保たない。
 見様見真似の練り上げられていない障壁はひどく脆かった。
 すぐにそれを悟る。戦いに不慣れなシズに、慢心する暇すら与えない。
 嘲笑うよう不可視の罅の入る音が耳を打ち、そうしていとも容易く裂かれてしまう。
 その一撃は、そのままシズをも――



 ――一陣、風が吹き抜けた。



 遅れてふわり、身体が浮き上がる。
 確実にシズを抉るかと思われた凶爪は、しかしシズには届かなかった。
 バランスを崩され虎が転がる。音もなく具足が地を踏みしめる。

「……か、」

 呼びかけた声を遮ったのはまたも風。
 シズを担ぎ上げた人物が、全身にまとうそれ。
 右頬が熱い。どうして、とか、なんで、とか、何でもいいから言わなければと思うのに、頭も舌もうまく回らない。
 そうしている間にもホワイトタイガーが獣の俊敏さでこちらに躍り掛って来る。
 そいつはそれを刀で軽く往なす。

(――なんで)

 振り上げた一撃よりも深く風の刃で傷を穿つ。
 怒り心頭の猛獣の、直線的な動きに対するカウンター。
 それを容易く決めてからやっと、そいつは俵抱きにしていたシズを降ろした。




「大丈夫か」

 変わっていない。
 トレードマークのように被っていた笠がなくなっている以外は何も。
 当たり前のようにこうして助けて、当たり前のように気遣って、当たり前のように手を伸べて、

 あたりまえに。

「……んだよ」
「シズ?」



「――なんで、出てくるんだよ」



「あんな風に突然消えて、アリシアとルカにどれだけ心配かけたと思ってる」
「……」
「アリシアはお礼言えなかったって落ち込んでた。ルカもすげぇ気にしてたんだよ、あんたのこと」

 気に入らなかったのだ。
 子供だからと守ってもらえて、手を伸ばしてもらえること。
 偶然出会っただけの存在であるのに、何の縁もない間柄であるのに、やたらに親身になられること。
 ずっと一緒にいられる訳でも、ずっと助けてもらえる訳でもないのに、それに甘えてしまっていること。

 ありがたい筈のことが素直に甘受できない自分がいた。
 それは或いは、守られることにも。
 ――それは或いは、アリシアやルカに対しても。

「あんたは勝手に世話焼いてきただけのお節介なのに、あいつらは気にかけてたんだ」
「………」
「なのになんで俺の前に出てくるんだよ。俺なんか放っとけよ、どうせ心配なんてしてなかったんだから――」
「シズ」

 右頬に触れられる。熱い。
 払い除けようと振った手を受け止められて、触れた指先が、淡く光る。
 熱さが少しずつ、引いていく。

 消えてから初めて、それが痛みだったと気付いた。



「……すまなかった」

 傷を癒して、それなのにそいつが口にしたのは謝罪だった。
 笠もないのに、顔にかかる影が、妙に深い。

「俺の勝手で、お前たちを振り回してしまった」
「……」
「迷惑だったろう」

 悟ったような調子で言う。
 そんなことは一言も言ってないのに――いや、言った、だろうか。
 自分は何を言ったのだろう。目が合わせられなくなって視線を落とす。

 頬の痛みと同じように、頭がどんどん冷えていくのが分かる。
 頬の痛みと同じように、頭に血が上っていたことに、初めて気付く。

「お前達は、俺の手など借りずとも十分生きられるのにな。余計をしてしまった」
「……」
「責任も負えないのに、中途半端な節介を焼かれては困るだけだったろう」
「……そんなこと」
「シズ。お前の言うとおりだ。……本当にな」

 瞼を伏せて、天を仰いだ。
 深く深い森の上にも、平等に空は横たわっている。

「俺はまったく、何をしているんだろうな――……」



 森は静かだった。
 鳥だけが遠くで控えめに囀っていた。



「……雨、か?」
「え?」
「とりあえずこれを被れ、シズ。身体を冷やすと良くない」

 そう言って外套を被せられるが、雨なんて全く降ってない。
 そもそもこの男は雨の匂いに敏感で、降り出すまで気付かないなんてことは一度もなかった筈だった。
 だから、雨なんて降ってないと分かるはずなのに、どうしてそんな勘違いを。

 男の顔を見上げる。
 被せられた外套に遮られて見えなかった頬を、やっと見る。

 そこに流れるしずくのいろを。



「……雨なんて、降ってませんよ」
「そのようだな。葉露か何かか――」

 外套の端で頬を拭うと、驚いた表情で見返された。
 こんな顔は初めて見たかもしれない。そう思ったら、少しだけ気のすく思いがした。
 ほんの少しだけだけれど。

「……シズ」
「何ですか」
「……やはり、雨ではないか」
「……そうかもしれませんね」

 拭ったばかりの雨のいろは、ひどく透き通った透明だった。
 降り止まない。降り止まない。








「シズ! どこだー!」
「シズ……!」

 声が聞こえてそちらを向く。
 行け、と背中を叩かれた。

「この周囲には警戒すべき獣はいない。早く安心させてやれ」
「……花冠さんは」
「俺はいい」

 首を振られる。
 どうせなら顔を見せて安心させてやれば、と思ったけれど、

「あの二人を見ると、また同行したくなってしまいそうだ」
「……」
「俺と会ったことだけ伝えてくれ。……心配をかけて、すまなかった、とも」

 ――迷惑を、とは言われなかった。
 それは彼なりの心変わりなのか、
 それとも――



 返しそびれた外套だけが、残り風にたなびいた。

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