13.零れ落つ


 生まれ落ちたその日から、ともすれば、ずっと。









 唐突とも思えるその言葉の矛先は花冠をおいて他になかった。

「……血の臭いがする」
 夜営に焚いた炎が火の粉と弾け頬に揺らめく。
 その炎にも負けぬ赤い双眸が、花冠を見ていた。

 テオドール=ヘルツフェルト。
 一時の同行者となった彼は、或いは最初から、その香に気付いていたのかもしれない。
 特別態度に不審を窺わせることもなく、表面上は穏やかで友好的だったが。

「先程水を汲みに行った時かね。不注意で手傷を負った」
「いや、そんなんと違う」

 一応の言い訳を軽くいなされて、やはりと納得する。
 向けられた眼光が鋭さを増す。煽られたように熱を妊む。

「ちょっと怪我しただとか、そんなんやない。そんなヤワなもんとは違う」
「では、何と?」
「……」

 正面から花冠に問いを返され、テオドールは返事に窮したようだった。
 たがそれも一瞬のこと。
 すぐに確信を以て花冠を正面から見据える。

「染み付いてるんや」
「……」
「根っこの深いところ、ちゅーか……拭い切れないくらいの隅々に。あんた自身、気付かんくらいにな」

 随分と鋭敏なものだと思う。
 テオドールの言葉を聞きながら、花冠はある種客観的な観点からの納得を得ていた。
 なるほど、他者からはそう見えるのか。
 なるほど、他者からはそう感じられるのか。

「よく気付いたものだな」
「……は? あ、まぁ、んー……普通は気付かんやろな。あんた猟師ゆうてたし、それで納得できるくらいには微かなもんやで」

 では、どうして。
 視線を向けると、少しだけばつが悪そうに、テオドールは声を漏らして。



「……まあ、これは与太話なんやけどな」







************ * * *  *   *        *







 気付かないふりをしていた。
 その方が心が穏やかでいられたから。
 そうすれば耳障りな咆哮を意識しないでいられたから。

「花冠ッ!」

 その安寧を破る声が耳に届く。
 振り返り見下げた視線の先、川面に身を浸した、フィンヴェナハの姿がある。

「今度こそ、見つけたぞ」
「……まだ、探していたのか」

 金色の瞳が、張り上げられた声が、あまりにも必死で切に迫る。
 どうしてと過ぎる疑問を殺し切れず、一言、呟くよう言葉が漏れる。

 あれだけ手酷い仕打ちを受けたというに随分と健気なものだ。
 その先に何を求めていたか、忘れてしまったわけではないだろうに。
 未だ信じ、求め続けているというのか。
 ――それは最早、一途とは言えない。

「待て、そこを動くな。いま其処まで――」
「フィンヴェナハ」

 呼び止めんと言い募るフィンヴェナハを遮る。
 静かな声。押し殺した低い声。それでもあれには十分に届く。
 そのことを知っていた。

 フィンヴェナハがこちらを向く。
 訝しむよう、聞き逃さぬよう、瞳で姿を捉えんとする。

「お前は、俺を殺さないのか」



 風が吹いていた。
 穏やかな愛撫に身を寄せて、ただその静謐に浸っていたかった。
 叶うことならば永遠に。
 叶うことならば終焉まで。

 叶うことならば。



 フィンヴェナハは長い間、花冠と共に在った。
 花冠はそれを拒まなかった。
 フィンヴェナハは花冠と二人、想いを遂げることを願い続けていた。
 花冠はそれを認めなかった。


『花冠よ、我がものとなれ。貴様の子を、我が生み育て、何者にも負けぬ存在しとしてくれる』

『貴様が齎した苦痛も、痛みも、すべて我が子が飲み込み、食らってくれよう』


 ――フィンヴェナハは望みを抱いていた。
 花冠はその望みが叶わぬことを知っていた。



 花冠は何一つ告げることなく、ただ、拒まずにいた。



 川から上がったフィンヴェナハが荷物を拾い上げる。
 その中に花冠が置き捨てた笠があった。
 故郷の民より譲り受けた、懐かしい代物だった。

「貴様は、殺さずとも死ぬ人間ではないか。それなのに、何故そうも死にたがる」
「死にたがっている訳ではない」

 フィンヴェナハの指が笠をたどる。
 花冠はそれを無感情に眺めていた。

「ただ、お前は俺を殺す権利があると、それだけの話だ」
「貴様を、殺す理由が無い」
「……俺はお前を受け容れないよ」

 面白いことを言うものと思った。
 お前は正当な理由もなくものの命を奪える生きものだろう。
 はじめに山の暴君にしたように。
 あるいは、花冠にしようとしたように。

 だから、花冠がフィンヴェナハを受け容れない、ただそれだけの由縁で十分だと思ったのだ。
 自分が殺されるためには。



 花冠に笠を投げ渡して、フィンヴェナハが想いを語る。
 曰く、次は本気で相手をしてやろう、と。
 曰く、花冠にもフィンヴェナハを殺す権利があるのだ、と。
 花冠が語るところのものを知ってか知らずかそう言い募るフィンヴェナハに、

 ――或いは、花冠は見切りをつけた。

「……お前には、俺と共に行く理由がない筈だ」

 背を向ける。
 最後通牒にも似て、だが、それにはあまりにも未練が残りすぎている。
 後ろ髪を引くこの感情は、衝動は、どうしようにも最早手遅れだ。



「お前の望みを俺は叶えない。お前の求めを俺は受け容れない」

「お前の目的は、俺といては果たせない」

「その上で、俺と共に歩くことがお前にとって正しいのか。お前は考え直すべきだ」



 返答は聞かない。
 歩みを進める。離れていく。
 隔絶すら願って、ただ、遠くへと。


「……俺は、お前を殺したいと思っているのだからな」



 だからこの手が血に染まらぬよう。
 乃至はその手が汚されぬよう、線を引く。



 哄笑じみた喚声が、既にその手を搦め捕っていた。







************ * * *  *   *        *








「薄気味悪いんや。あんたの、それ」

 テオドールは言葉を選ばず、抽象的な物言いをした。
 血の匂いなどと具体的なところを示さず、ただ、”それ”とだけ。
 率直に思うところを花冠に伝えて、それがしっくり来るといった表情をしていた。

「薄気味悪い、か」

 気分を害した様子もなく花冠が反芻する。
 せや、とテオドールは頷いた。
 薄気味悪い。繰り返す。

「ヒトとか、動物とか、それ以前のシロモノやろ。もっと根源的っちゅーか……んー、言いづらいな」

 言い倦ねたように表情を曇らせる。
 意識すればするほどに警戒心が煽られるようで、テオドールはぴりぴりとした空気を纏い始めていた。

「……それを感じ取っておきながら、よくもまあ、こうして共にいるものだな」
「んー? そらまあ、気味悪いとは思うたけどな。……まあ、なんちゅーか、懐かしかったみたいな」
「?」
「や。気にせんといてや」

 苦笑気味に掌を振られて、花冠もそれ以上問い詰めることはしなかった。

「ま、あんた自身は悪い奴には見えんかったしな。俺も腕にはそこそこ自信あるし、そこは自己責任ってやっちゃ」
「そうか。……時にテオドール」

 花冠に名を呼ばれ、テオドールがこちらを見る。
 瞳は相変わらず赤かった。



「俺のこれは、どれほど保つと思う?」

-Powered by HTML DWARF-