18.月の色
『――真朱。貴様は、我らが約定を破るのか』
全身に傷を作り、獣が唸る。
責めるような、悲しむような、悼むような声で唸る。
突き付けた刃の切っ先が震える。
全身を駆け巡る逡巡、何故と叫ぶ声、見開かれた満月に似た金色。
その全てが、何よりも鮮烈だった。
その全てが、何よりも。
枯れた大地を歩く。
吹き抜ける風は乾ききり砂を運ぶ。
ぱさついた髪が汗ばんだ首筋に張り付き、少しだけ気持ちが悪い。
少しだけ懐が軽い。
同行者の少年少女に自分の水筒を譲り渡したからだ。
花冠が持ち合わせていた唯一のそれだったが、自分には特別、必要不可欠なものではなかったから。
飲み水を切らしても、食糧を失い餓え果てても、命を落とすことはないと知っていたから。
視線を後ろに向ける。
魔異と名乗った、人の範疇を超えた”目”を持つ少年。
独特の感覚を持つ冬花という、口数の少ない少女。
それと、未だ花冠と共に歩み続けることを選んだ、フィンヴェナハ。
月の精霊を探し求め、砂地を抜けることを目指す四人の道中では交わされる言葉も少なく、風の音がやけに大きく響く。
――俺は、と、言い掛けた続きは、途中で呑み込む。
「予備があるからな。これはお前たちが使えばいい」
砂地を歩く道中で、困ったように立ち尽くす少年と少女を見つけたのは、ただの偶然に過ぎなかった。
その片方、少年の方が見知った――以前言葉を交わした相手であったこともまた、同様にただの偶然だ。
水筒を差し出す傍ら、フィンヴェナハを振り返る。
余計を言ってくれるなよ、と、視線だけで告げ牽制する。
それが伝わったのか、何事か紡ごうとしたその唇は、そのまま諦めたように閉じられた。
水筒を差し出された先、少女は、一度だけ瞬いてから、戸惑ったように視線を彷徨わせた。
虚空に揺らいだその視線は、最終的に、傍らの少年へと向けられる。
なにか、委ねるように。
「……」
「……いいのか?」
少年の方もまた同じように、迷いを隠しきれなかったようだった。
当然といえば当然だった。乾いたこの砂地において、水がどれほど貴重で重要なものか、知っていたからこそ彼らはああして立ち尽くしていたのだ。
それを、こうも簡単に。
多少の交流があったとはいえ、縁もゆかりもない他人から差し出されれば、訝しむのが普通だ。
予備があるから、とは、だから加えた。
面倒を全て避けてしまって、ただ、彼らが素直に、気に病むことなくこの水を受け取れるように。
一種の自己犠牲、ふざけた博愛、奉仕精神。
そんなものでは済まされない。
そんな尊いものではない。
これは自己満足だ。
少年が少女に視線をやる。
不安げに揺れる瞳と眼鏡越しにかち合って、それから観念したように手を伸ばした。
「助かる。こいつは有り難く使わせて貰う」
受け取った水筒を自分の荷に収め、幾許かの安堵を得たようだった。
それは花冠の側も同じで、けれど、大きく異なっている。
食い違っている。
花冠が彼らとの同行を申し出たのは、その直後の事だった。
『お前の瞳は、満月のようだな』
唐突な言葉に獣は胡乱な瞳でこちらを見上げた。
既朔の繊月が朧に浮かび、薄らかな月明かりが山肌を照らす。
盃を片手にそれを嗜みながら、ふと、そう思わされたのだ。
朧月光に黒く艶やかな毛並みが照らされ仄かに光る。
それが美しいと思ったし、自分に向けられる金色の瞳もまた、――それ以上に、美しい。
透き通った琥珀に光が差し込んで、きららかで控えめな乱反射に、仄かに輝く。
闇の中ににぽかりと浮かぶ、一対の金色。
『酔っているのか』
『まさか。……ただ、そう思っただけだ』
『ふん』
おかしなことを言う、と、鼻を鳴らしてそっぽを向かれる。
つれないものだと肩を竦めて、盃に満たした酒を呷った。
『なあ、真朱よ』
『どうした。 』
『準備は、整いつつあるのだろう』
金色が、こちらを見ている。
迷いなく。疑いもなく。彼の視線は、いつでも真っ直ぐだ。
『そうだな。刻限も、迫りつつある』
酒精を喉に流し込んで、とろけたその味に酔う。
そうだな、と繰り返す。
そうだよ、と認める。
『……少しばかり、面倒をかけるかもしれん』
『面倒を、か』
『ああ。……すまないな、 』
『ふん。今更だ』
くぁ、と、呆れたように欠伸をひとつ。
それから後ろ足で首を掻く。
獣そのものの動作ののちに、けれど瞳には、確かな知性を宿して。
『我らは皆、貴様の庇護の下に在る。……それを思えば、多少の面倒など』
きりと瞳がこちらを見上げる。
獣の姿で跪き頭を垂れて、当然が如く、それを語る。
『……俺は、恵まれているな』
『真朱?』
『いや。……何でもない。気にするな』
獣の首元を撫でてやれば、貴様まで我を動物扱いするのか、と半眼で睨まれた。
いいだろう、別に、と薄く笑い返して戯れに、
――その奥底の、すまない、とその乾いた声は、最後まで、届けられぬまま。
月の精霊。
光の子。
少女が探し求めているというそれ。
あれのように、美しい満月を携えているのだろうかと、少しだけ、懸想した。