19.眠りゆくもの、あいすべきもの

 ちりちりと、身体を焦がすような感覚に苛まれ続けている。
 それは嫉妬。それは恋慕。それは執着。
 全てが肺腑を握り潰して、呼吸の術すら忘れそうになる。

 憧れが飽く涸れるまで。
 大切だったあなたの幻影を軋ませるほどに。
 その熱は強く、意識を塗り潰していく。
 蝕まれていくことを知る。

 あくがれとは、こういうことを指すのだったか。

 踏み躙った全てが、助けを求めて伸べられた手が、自分の潰したそれが。
 身体に纏わりついて離れない。

 向けられた怨嗟は鮮烈な深緋とぬばたまの黒と、そして輝かしい黄金の、暗澹たる獣。
 足を伝い太腿を這い回り腰を掴み、首を啜って胸を撫ぜる。
 愛おしむように、忌み嫌うように、爪先が胸の傷痕に触れ、弄ぶ。

 やめろ、と叫ぼうとした口を塞がれる。
 視界をも覆われて、腕も捉えられて、ただ、触れられる感触だけを知る。
 ばきり、ばきりと。
 抵抗に腕を動かすたび、何か鳴るような音がする。

 弄ぶ爪先は止まらない。
 擽り遊び、爪を立てては軽く引っ掻き、その度、心臓を握り込まれたような戦慄が背筋を這い上がる。
 ――違う。実際にその通りなのだ。



 この傷痕は”花冠”というイキモノを形成するための重要な一部であり、その存在を保つための分水嶺だった。
 それに触れられるということは、弄られるということは、即ち。



 ずぶりと這入り込まれ、不快感に眩暈がする。叫ぶ声すら、耳を塞がれて聞こえない。
 不快感だけには留まらない、これは危機感で、嫌悪感で、そして何より――







「――旦那?」

 少女の声に続いて、眩しさが瞼を刺した。
 薄目を開けてそちらを見ると、襖を開けて心配そうにこちらを見るあやかしの顔があった。
 ――ナナシ。そうだ、ナナシと呼ばれていた。

「悪いね。あんまり魘されていたもんだから心配になって」

 ずいぶんと酷く魘されていたよ。旦那のあんな声初めて聞いたね。
 上体を起こす花冠にそう語るナナシの声が、異世界じみて耳に響く。
 曇った鼓膜が、世界を遠く見せている。

「旦那ー? 大丈夫かい?」
「……あ」

 目の前で掌を振られて靄がかかった視界が晴れる。
 覗き込む少女と目が合い、咄嗟にはだけた浴衣の前を合わせた。
 その動作に思い出したように、そうだ、とナナシが声を張る。

「本題を忘れていたよ」
「本題?」
「全く旦那ったら、自分は朝は早いから大丈夫って言ってたくせにさ」

 ナナシはしょうがないねえ、と首を振ってから、満面の笑顔をこちらに向けた。

「旦那を一番風呂に招待するのさ!」



 ナナシと花冠が鉢合わせたのは森の中のことで、それは全くの偶然であった。
 花冠はひとまずの探索の一環として森にいたのだし、ナナシの側は彼女の働く湯屋の用事か何かとのことで、ラノエルージュとアルキメンデス――ラノエルージュとは面識があったが、彼とは初対面だ――を手伝いに連れていた。
 彼女とは知らない仲ではなかったし、花冠には特別目的もなかったので助勢に加わった。
 その流れでナナシに誘われたのだ。どうせ野宿をするくらいなら、ウチに来ておくれよ、と。

 ナナシの働く湯屋『鬼の古巣』は、精霊の力でもってその湯を振る舞っているらしい。
 花冠の目にはあやかしの眷族に見えたナナシも、湯屋で自分らを迎えた露草という女も、同じくこの湯屋を営む精霊とのことだ。……本当はもう一人いるらしいが、今は失踪中だとか。



「まだ開放されてない時間帯だからね、ほんとの一番風呂を独り占めさ! 期待しておくれよ」
「いいのか、態々」
「旦那には普段からお世話になってるからねえ。それに、ウチに来たのに浸からずに帰るなんてもったいないじゃないか」

 申し訳なく思うんなら、ウチの評判を広めることで返してくれればいいのさ、と相変わらずの笑顔で言う。

 湯屋を訪れたはいいが、風呂へは向かおうとしない花冠を訝しんだのもまたナナシだった。
 自分は胸に醜い傷痕があるから、他人に気を遣わせてしまう。そうでなくとも他人にこれを晒すのは好かない。
 そう事情を話す花冠に、それなら任せておくれよ、と胸を叩いてみせたのも。

「堪能するといいよ。ウチの湯は疲労回復、神経痛、筋肉痛、関節痛、打ち身、慢性消化器病、痔疾、冷え性、慢性皮ふ病、切り傷、やけど、その他諸々と、これだけの効能を取り揃えているんだ。しっかり湯治しておくれ」







 少し熱めの湯に身を浸して、深く息を吐く。
 花冠が最初に選んだのは露天風呂だった。室内での入浴よりも外の方が落ち着く、というのが一番の理由である。
 というのも、花冠にとって、身を清めることは川での水浴びを意味していたからだ。
 旅暮らしの家を持たぬ身にとっては、風呂というものは、湯に浸かるという行為は、酷く贅沢なものに思えたのだった。

 温泉から上げた掌から湯のしずくが伝い落ちる。
 じわり、身体の芯まで染み渡る包み込むような温もりに、花冠は身を委ねることにした。

 遠く果てに、獣の声が聞こえていた。

 温かな湯が、膚の下、奥深くに蠢くそれを、少しずつ冷ましていくような感覚がする。
 冷ます、というのは適切でないか。恐らくは、鎮めていくだとか、和らげていくだとか、そういった表現の方が相応しい。
 ――”これ”もこの湯に癒されているのだろうか。
 人間でもないのに、と少しおかしく思ってから、そもそも花冠自身もとても人間とは言えない存在であることを思い出して尚更おかしくなる。
 本当に、滑稽なことだ。



 宥められていくのは、怨嗟。
 あるいは殺意。
 同行者に向けられる、確かなそれ。

 この手があの龍を屠らぬためには、定期的な小休止が必要だった。
 その身体を、この掌を、血に染めぬためには、どうしても。

 殺してしまえと叫ぶ声がした。
 何故殺さないのかと責める声がした。
 駄々を捏ねて、ひたすらに喧しく鳴り響いて、思考を心を食い尽くしていく。
 そんな獣が身の内にいたのだ。

 ぱしゃりと首に湯を掛けてから、結局肩まで沈み込む。
 温かい。心地が良い。
 少しずつ蝕まれている正気の中に、それらを感じる機能が残っていることを、改めて確認する。
 安堵すら、する。

 ああ、まだ、いきている。







 獣は眠る。
 牙と爪を潜め隠して、再びその凶器を振るう先をその時を見極めるまで。
 禍々しく獰猛で、凄絶で気高く、穢らわしいそれを、花冠は確かにあいしているのだ。