20.彼の祝福

『僕は君を哀れに思うよ』

 女が言う。
 俺の知らない女だ。
 黒く丸い大きな瞳がこちらを見て、我儘を言ったんだ、などと笑う。
 何の話だか全くわからない。

『君には感謝しているんだ。僕の大切を支えてくれたから』

 ――あの子はね、人に何かを伝えるのが下手なくせに、実はとっても寂しがり屋だから。
 ずっと心配していたんだよ。

 少女、とも呼べるのだと思う。
 それくらいには幼い顔をしている癖に、何もかもを悟りきったような口調で話すから、それがいとけなさを失わせている。
 悪いことではないが、少し、勿体無いな、と思った。

『君はまだ、あの言葉を覚えているのかな』

 どの言葉だ、と思索を巡らす前に、女が答えを示す。



『擲つべき時を見過ごすな。……機を逃したならば、最期は、貴様の最も望まぬ形で、全てを喪うこととなる』



 振り返り、笑う。
 笑顔はやはりいとけない。

『喪う全てを、増やしすぎてはいないかい? 君がそれを選ぶなら、僕は止めやしないけど』

 ――君はひとを愛しているんだね。あの子と一緒だ。
 僕は大切さえよければそれでいいんだけど、あの子はそうじゃなかったからね。
 だからああして泣いていたんだ。拭ってやることも、できなかったなあ。

『君もそろそろ破綻が近いよ。君が擦り減らし続けている君は、とっくの昔に、君であることをやめてしまったのだもの』

 ――こんなことを言っても仕方ないのだけれどね。
 だからこれは、ただの僕のお節介だ。

 囁くように耳打って、歳相応じみて目を細める。



『お節介もほどほどにしておけ。……最期に喪われることを望まないのは、君一人だけじゃないんだ』



 ――ああ、そろそろ限界かな。
 まだまだ伝えたいことは沢山あるのに、全く嫉妬深くて困ったものだ。君にはもう、終わりを告げる力なんて残っていないくせに。
 ひどくいびつで穢れていて、私欲に満ちて、その姿を鏡に映してみたらどうだい?
 分かっているくせに。ねえ? 真朱。

 呼ばれて振り返る。
 額に柔らかい感触。
 微笑み。

『祝福だ。辛いことがあっても耐えられるように。それと、お礼』

 ――君はそう教えたろう?



 声が、もう、遠い。







************ * * *  *   *        *






「何か、嫌なことでもあったか?」

 その言葉はするりと口から吐き出されて、それから遅れて、頭が痛んだ。
 少女は――シセ・フライハイトは、何事もないように明るく笑う。

「ないですよ? あるように見えました?」



「……訊き方が、悪かったかね」

 耳鳴りがする。
 獣はもう、眠ってしまった筈なのに。

「何を隠している。――いや、違う……隠されている?」

 警鐘が鳴らされる。
 それを少女に対するものと錯覚した。

「お前のその振る舞いは、俺の眼には、ひどくいびつに映るよ」

 危うく映ったから。
 そのままではじきに訪れる限界が、終焉が、目に見えるようだったから。
 だからそれを問うて、彼女がそれを否定して、けれど、否定が下手過ぎたのだ。

 ――違う。下手なのではない。あれが今の彼女の自然だった。
 ただ、その自然の形が、歪んでいるだけだ。

「いびつ?」

 呆けたような声が返ってくる。

 そう、いびつだ。
 彼女はそれを自覚していない。
 だから、何か、伝えなければと、何の関係もないくせに。

「そうですか? 私は私で、やりたいようにしているんですけど……おかしいんですか?」

 笑顔は作られている。声が強張っている。
 惑う少女が花冠を見ている。
 惑わせたのは自分だった。

「本当にやりたいことをしているのならば、俺の言葉に怯える必要もないだろう」

 自分の目に映る真実を突きつけること。
 正論を積み重ねていくこと。
 その意味を、いつしか忘れる。

 少女が恐れるものの正体にも、気付けない。

「……そのままでは、いつか、壊れてしまうよ」

 少女を壊すものの正体にも、気付けない。



 縋る先を見つけられない子どものように、少女は胸元を握り締めていた。
 それでも、視線は、表情は、精一杯に毅然として。
 一人の、魔法を使う者として、言葉を返す。

「『壊れる』ときは、不釣り合いな魔法を使いすぎたときです。私は、この力を不相応だとは、思いません」

 そういうものなのか、と、場違いに関心を呼び起されなどするが、残念ながらそれを追究する場面ではなかった。
 今は少女を追及していた。
 どうして。
 何の権利があって。
 なんのために。

 その追求を、忘れる。

「花冠さんの、『壊れる』って、なん、です、……。なんです、か」

 声が弱々しい。
 恐怖と恐怖に蝕まれ苛まれ、かわいそうなほどに。

 花冠は魔法だとか、魔術だとか、そういった超常や不可思議には通じていない。
 だから、シセの知る意味での”壊れる”ということが分からないのだと彼女に告げる。
 その上で、問い掛けられたそれに答える。

「俺が案じているのは、破綻してしまうことだ」

 それが近いと知っている。
 確かに訪れ来たるものだと知っている。

 ――誰に?

「自分自身に嘘を吐いて、振る舞いで全てを覆い隠して、うまくやれると思い込んで」

 ぴり、と線が、頭の中を突き抜けて響くような痛み。
 まだ大丈夫。まだ大丈夫だと言い聞かせ続けた結果。
 執着の形を間違えて、手放すことも叶わず、ただ傍に置き続けた結果。



 赤い色が広がっていく。
 血潮に沈んだ、対照的に白い掌。



「そうしていつか、限界が訪れる時が」

 歪みも穢れも消えてくれない。
 積み重なり肩に伸し掛かるそれが重くて、足に纏わり付くそれが鬱陶しくて、背中にしがみつくそれを振り払うこともできないまま。
 その代償がこれなのだ。
 その代償を払い続けるのだ。

 ――あいしてる、と、
 けものでないこえ。

 澄み渡った誘惑。



 違いますか。
 彼女の喉が、こくりと鳴った。
 破たん。惑いのままに、言葉を漏らす。

「自分に嘘なんて」

 その続きは聞けなかった。
 少女を見る。
 だって、と、だって、と、追い詰められたように声を震わせて、顔を上げて、その瞳が濡れている。

「じゃあ、どうすればいいんですか!?」

 追い詰められたように、ではない。
 追い詰められているのだ。彼女は。
 行き場をなくして叫ぶ声。

「壊れるまで『大丈夫』って言い聞かせてないと、できないんです!」

「あんなの、どうしたらいいんですか!」

「駄目で、捨てられたら。私どうしたらいいんですか!?」

 その悲鳴こそが、本質に思えた。



「できるって言い聞かせて、動かないと、駄目なんです、私は!!!」



 落ち着け、と、努めて穏やかに声を投げる。

「……お前は、何を恐れているんだ。”駄目”になって、捨てられることか?」

 見定めるよう、少女を見る。
 自分が追い詰めている少女を見る。
 少女が握りしめた拳に、涙が落ちるのを見る。

「そう。私が怖いのは! 使えなくて、捨てられること!」

 貼り上げた声は、すぐにか細いそれになる。
 折れそうな心が、気持ちが、震えている。

「であればその日は遠くないよ。言い聞かせて、無理矢理動いて、それが永遠に続くはずなどないことくらい、わかっているだろう」

 だから恐れる。
 だから怯える。
 だから惑い続ける。

「無理を重ねれば重ねるほど、破綻もひずみも大きくなる」



「……いつか来る”それ”が、より悲惨なものになって、その時に後悔しても遅いんだ」

 彼女の拳に雫が日来る。
 拭ってやることはできない。
 触れることなど出来やしない。
 既に自分は、少女の害敵でしかない。

 今の彼女が恐れて、怯え、惑っている対象は、紛れもなく花冠だった。
 それを悟る。突き付けたそれを、今更下げることができないことも、同じように知る。
 繰り返しだ、と思った。
 知らず知らずに、取り返しの付かないところまで足を沈めている。
 振り返った背後に、何一つ残されていないことに気付く。


「怖いの。落ち着けるわけが、ないよ」

 涙が止まらない。
 駄目になりたく無いのに、と、懇願じみて、顔を俯ける。

「ニコレットもアシルも、今のままでいい、っていうのに。駄目なの。越えなきゃいけないって、言うの」

 俯けられた瞳に映されるものを、花冠は知らない。
 覗き込むこともできない。
 もう十分に立ち入ってしまったのに、立ち入ってしまったからこそ。

「歪んだまま回らせ続ける人が、いるの」

 絶望に満ちて乾いた声。
 ぞっとするほど暗い、闇の奥深くに捕らえられたような。

「……私、壊れたく、無い……帰りたい……」



 それが許されることならば。
 少女を引き寄せて、安心しろと、頭を撫でてやることも、背中を叩いてやることもできたかもしれない。
 相手がアリシアやルカであれば、彼らの事情を慮って落ち着かせてやることもできたかもしれない。
 フローラであれば宥めることも涙を受け止めることも、トーコであれば、もっと深く悩みを聞いてやることも。

 それができない。
 彼女を傷付ける者でしか有り得ないまま、その中に踏み入ってしまったから。



 だから、ことば、だけを。

「”今のままでいい”。”越えなきゃいけない”。お前は、そのどちらを信じているんだ」

 違うか、と首を振る。
 信じたいものを信じられない。
 そんなことは当たり前だ。

「今のままでいいと言う、その二人を、信じてはいないのか?」

 馬鹿げた正論で、言葉で、ほら、やはり傷を深めることしかできないじゃないか。

「それとも、信じられないのか?」
「ち、」

 ちがう。
 下がりかけた足が踏み止まって、代償に荷重が、



 視線が彷徨う。
 何か、奥深くで深いな音が通り抜けたような気がして、
 少女の体が頽れる。

 ぜいぜいと、ひどく苦しそうな、呼吸をしている。



「――シセ?」

 流石に様子がおかしい。
 体調を崩したかと目線を近づけて、少女の顔色を確かめようとするが、

「どう、して」

 耳打つ声には困惑と怒り。
 少女が花冠に、正面からはっきりと向けた感情。



「そんなこと、いう、ん、です」

「なに、が、したい、ですか」

「こわしたい、ん、ですか」

「いま」



「いま!」



 砕けていく。
 蹌踉めくように数歩下がる少女の中で、何か、取り返しの付かないほどに粉々に。
 それを音として、はっきりと知覚させられる。

 名を呼ぶ。
 遠ざかる身体に手を伸ばす。



 それが届く前に、