20.彼の祝福
『僕は君を哀れに思うよ』
女が言う。
俺の知らない女だ。
黒く丸い大きな瞳がこちらを見て、我儘を言ったんだ、などと笑う。
何の話だか全くわからない。
『君には感謝しているんだ。僕の大切を支えてくれたから』
――あの子はね、人に何かを伝えるのが下手なくせに、実はとっても寂しがり屋だから。
ずっと心配していたんだよ。
少女、とも呼べるのだと思う。
それくらいには幼い顔をしている癖に、何もかもを悟りきったような口調で話すから、それがいとけなさを失わせている。
悪いことではないが、少し、勿体無いな、と思った。
『君はまだ、あの言葉を覚えているのかな』
どの言葉だ、と思索を巡らす前に、女が答えを示す。
『擲つべき時を見過ごすな。……機を逃したならば、最期は、貴様の最も望まぬ形で、全てを喪うこととなる』
振り返り、笑う。
笑顔はやはりいとけない。
『喪う全てを、増やしすぎてはいないかい? 君がそれを選ぶなら、僕は止めやしないけど』
――君はひとを愛しているんだね。あの子と一緒だ。
僕は大切さえよければそれでいいんだけど、あの子はそうじゃなかったからね。
だからああして泣いていたんだ。拭ってやることも、できなかったなあ。
『君もそろそろ破綻が近いよ。君が擦り減らし続けている君は、とっくの昔に、君であることをやめてしまったのだもの』
――こんなことを言っても仕方ないのだけれどね。
だからこれは、ただの僕のお節介だ。
囁くように耳打って、歳相応じみて目を細める。
『お節介もほどほどにしておけ。……最期に喪われることを望まないのは、君一人だけじゃないんだ』
――ああ、そろそろ限界かな。
まだまだ伝えたいことは沢山あるのに、全く嫉妬深くて困ったものだ。君にはもう、終わりを告げる力なんて残っていないくせに。
ひどくいびつで穢れていて、私欲に満ちて、その姿を鏡に映してみたらどうだい?
分かっているくせに。ねえ? 真朱。
呼ばれて振り返る。
額に柔らかい感触。
微笑み。
『祝福だ。辛いことがあっても耐えられるように。それと、お礼』
――君はそう教えたろう?
声が、もう、遠い。
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「何か、嫌なことでもあったか?」
その言葉はするりと口から吐き出されて、それから遅れて、頭が痛んだ。
少女は――シセ・フライハイトは、何事もないように明るく笑う。
「ないですよ? あるように見えました?」
「……訊き方が、悪かったかね」
耳鳴りがする。
獣はもう、眠ってしまった筈なのに。
「何を隠している。――いや、違う……隠されている?」
警鐘が鳴らされる。
それを少女に対するものと錯覚した。
「お前のその振る舞いは、俺の眼には、ひどくいびつに映るよ」
危うく映ったから。
そのままではじきに訪れる限界が、終焉が、目に見えるようだったから。
だからそれを問うて、彼女がそれを否定して、けれど、否定が下手過ぎたのだ。
――違う。下手なのではない。あれが今の彼女の自然だった。
ただ、その自然の形が、歪んでいるだけだ。
「いびつ?」
呆けたような声が返ってくる。
そう、いびつだ。
彼女はそれを自覚していない。
だから、何か、伝えなければと、何の関係もないくせに。
「そうですか? 私は私で、やりたいようにしているんですけど……おかしいんですか?」
笑顔は作られている。声が強張っている。
惑う少女が花冠を見ている。
惑わせたのは自分だった。
「本当にやりたいことをしているのならば、俺の言葉に怯える必要もないだろう」
自分の目に映る真実を突きつけること。
正論を積み重ねていくこと。
その意味を、いつしか忘れる。
少女が恐れるものの正体にも、気付けない。
「……そのままでは、いつか、壊れてしまうよ」
少女を壊すものの正体にも、気付けない。
縋る先を見つけられない子どものように、少女は胸元を握り締めていた。
それでも、視線は、表情は、精一杯に毅然として。
一人の、魔法を使う者として、言葉を返す。
「『壊れる』ときは、不釣り合いな魔法を使いすぎたときです。私は、この力を不相応だとは、思いません」
そういうものなのか、と、場違いに関心を呼び起されなどするが、残念ながらそれを追究する場面ではなかった。
今は少女を追及していた。
どうして。
何の権利があって。
なんのために。
その追求を、忘れる。
「花冠さんの、『壊れる』って、なん、です、……。なんです、か」
声が弱々しい。
恐怖と恐怖に蝕まれ苛まれ、かわいそうなほどに。
花冠は魔法だとか、魔術だとか、そういった超常や不可思議には通じていない。
だから、シセの知る意味での”壊れる”ということが分からないのだと彼女に告げる。
その上で、問い掛けられたそれに答える。
「俺が案じているのは、破綻してしまうことだ」
それが近いと知っている。
確かに訪れ来たるものだと知っている。
――誰に?
「自分自身に嘘を吐いて、振る舞いで全てを覆い隠して、うまくやれると思い込んで」
ぴり、と線が、頭の中を突き抜けて響くような痛み。
まだ大丈夫。まだ大丈夫だと言い聞かせ続けた結果。
執着の形を間違えて、手放すことも叶わず、ただ傍に置き続けた結果。
赤い色が広がっていく。
血潮に沈んだ、対照的に白い掌。
「そうしていつか、限界が訪れる時が」
歪みも穢れも消えてくれない。
積み重なり肩に伸し掛かるそれが重くて、足に纏わり付くそれが鬱陶しくて、背中にしがみつくそれを振り払うこともできないまま。
その代償がこれなのだ。
その代償を払い続けるのだ。
――あいしてる、と、
けものでないこえ。
澄み渡った誘惑。
違いますか。
彼女の喉が、こくりと鳴った。
破たん。惑いのままに、言葉を漏らす。
「自分に嘘なんて」
その続きは聞けなかった。
少女を見る。
だって、と、だって、と、追い詰められたように声を震わせて、顔を上げて、その瞳が濡れている。
「じゃあ、どうすればいいんですか!?」
追い詰められたように、ではない。
追い詰められているのだ。彼女は。
行き場をなくして叫ぶ声。
「壊れるまで『大丈夫』って言い聞かせてないと、できないんです!」
「あんなの、どうしたらいいんですか!」
「駄目で、捨てられたら。私どうしたらいいんですか!?」
その悲鳴こそが、本質に思えた。
「できるって言い聞かせて、動かないと、駄目なんです、私は!!!」
落ち着け、と、努めて穏やかに声を投げる。
「……お前は、何を恐れているんだ。”駄目”になって、捨てられることか?」
見定めるよう、少女を見る。
自分が追い詰めている少女を見る。
少女が握りしめた拳に、涙が落ちるのを見る。
「そう。私が怖いのは! 使えなくて、捨てられること!」
貼り上げた声は、すぐにか細いそれになる。
折れそうな心が、気持ちが、震えている。
「であればその日は遠くないよ。言い聞かせて、無理矢理動いて、それが永遠に続くはずなどないことくらい、わかっているだろう」
だから恐れる。
だから怯える。
だから惑い続ける。
「無理を重ねれば重ねるほど、破綻もひずみも大きくなる」
「……いつか来る”それ”が、より悲惨なものになって、その時に後悔しても遅いんだ」
彼女の拳に雫が日来る。
拭ってやることはできない。
触れることなど出来やしない。
既に自分は、少女の害敵でしかない。
今の彼女が恐れて、怯え、惑っている対象は、紛れもなく花冠だった。
それを悟る。突き付けたそれを、今更下げることができないことも、同じように知る。
繰り返しだ、と思った。
知らず知らずに、取り返しの付かないところまで足を沈めている。
振り返った背後に、何一つ残されていないことに気付く。
「怖いの。落ち着けるわけが、ないよ」
涙が止まらない。
駄目になりたく無いのに、と、懇願じみて、顔を俯ける。
「ニコレットもアシルも、今のままでいい、っていうのに。駄目なの。越えなきゃいけないって、言うの」
俯けられた瞳に映されるものを、花冠は知らない。
覗き込むこともできない。
もう十分に立ち入ってしまったのに、立ち入ってしまったからこそ。
「歪んだまま回らせ続ける人が、いるの」
絶望に満ちて乾いた声。
ぞっとするほど暗い、闇の奥深くに捕らえられたような。
「……私、壊れたく、無い……帰りたい……」
それが許されることならば。
少女を引き寄せて、安心しろと、頭を撫でてやることも、背中を叩いてやることもできたかもしれない。
相手がアリシアやルカであれば、彼らの事情を慮って落ち着かせてやることもできたかもしれない。
フローラであれば宥めることも涙を受け止めることも、トーコであれば、もっと深く悩みを聞いてやることも。
それができない。
彼女を傷付ける者でしか有り得ないまま、その中に踏み入ってしまったから。
だから、ことば、だけを。
「”今のままでいい”。”越えなきゃいけない”。お前は、そのどちらを信じているんだ」
違うか、と首を振る。
信じたいものを信じられない。
そんなことは当たり前だ。
「今のままでいいと言う、その二人を、信じてはいないのか?」
馬鹿げた正論で、言葉で、ほら、やはり傷を深めることしかできないじゃないか。
「それとも、信じられないのか?」
「ち、」
ちがう。
下がりかけた足が踏み止まって、代償に荷重が、
視線が彷徨う。
何か、奥深くで深いな音が通り抜けたような気がして、
少女の体が頽れる。
ぜいぜいと、ひどく苦しそうな、呼吸をしている。
「――シセ?」
流石に様子がおかしい。
体調を崩したかと目線を近づけて、少女の顔色を確かめようとするが、
「どう、して」
耳打つ声には困惑と怒り。
少女が花冠に、正面からはっきりと向けた感情。
「そんなこと、いう、ん、です」
「なに、が、したい、ですか」
「こわしたい、ん、ですか」
「いま」
「いま!」
砕けていく。
蹌踉めくように数歩下がる少女の中で、何か、取り返しの付かないほどに粉々に。
それを音として、はっきりと知覚させられる。
名を呼ぶ。
遠ざかる身体に手を伸ばす。
それが届く前に、