3.冷える
一歩進むたび足に柔らかい感触が残り、粘ついて尾を引く。
纏わりつくそれを振り払いもせず歩み下る。濡れた音が耳に張り付く。
不快だった。どうしようもなくこびり付いて、深くまで汚染された気分になる。
否――実際にそうなのかもしれない。
踏み締める。乗り越える。
踏み躙り、唾棄すべきものとして切り捨てる。
培ってきたかもしれないものを。彼らを。
叶うことならば、あなたでさえ。
選んだ以外のあらゆるすべては、何一つ手に残りはしない。
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続く足音が遠ざかりつつあることに花冠が気付かない筈はなかった。
最初は意気揚々と先行していたフィンヴェナハは、今は花冠の遠く後ろで息を切らしている。
「待て……花冠……待て……」
静止の声に足を止め振り返る。
随分と苦しげな様子だった。落ちた身体能力で無理をすればそれも必然か。
花冠より遥か長く悠久を生きてきた筈のこの龍は、されど技巧と呼べるだけのものを殆ど持ち合わせていなかった。
何もかもが力任せの豪放磊落。
それがフィンヴェナハという竜の、迷いなき有り様だった。
「もう少し……ゆっくり歩け……」
されど今は、精魂尽き果てたと言わんばかりの表情をしている。
「身体に不調があったとは見えないが」
「知ったことか……これしきのことで息を上げるとは……」
「………」
「おい、余裕があるなら少し荷物を持て……」
「余計を持ち歩くからだ」
肩で息をしながら差し出されたフィンヴェナハの荷を無造作に受け取る。
この龍は花冠には理解できない収集癖を持ち合わせており、そのため持ち歩く荷は花冠のそれよりだいぶ多い。
このような状況になったのだからもう少し減らしてもいいだろうに、などと考える花冠の荷は未だただひとつきりである。
余計を切り捨てた結果ではなく、そもそもが求めず生きてきた。
「本当に、貴様も体力が落ちているのか?」
「当たり前だ。落ちていない筈はなかろう」
これだけ劇的に身体能力が衰えているというのに、体力だけがそのままというのはあまりにもできすぎている。
いや、むしろ不出来と評すべきか。どちらにせよ、今の身体では前のような無理は利かないことは理解できた。
再び歩き出す。先程より幾らか歩調を緩めて。
それから幾許か歩いたのち、今度は後ろの足音が先に止まった。
「……待て花冠、水の音だ。近くに川があるぞ」
「それがどうかしたか」
「以前に川辺に立ち寄ってから随分と経つだろう。暫く水も浴びていない、立ち寄って行くぞ」
フィンヴェナハは花冠の返答を聞かずに足をそちらへと向ける。
「……休みたいのなら、構わんが」
とはいえ特段異論もないため大人しく後を追った。
フィンヴェナハから休息を提案されたのは少し意外だったが、やむを得ないことだったのかもしれない。
単純に身体能力が落ちただけの花冠とは異なり、フィンヴェナハは人の身に押し込まれた窮屈さに縛られている。
これからはそれを考慮して対応した方がいいかもしれない、と少しだけ思った。
フィンヴェナハは川岸に到着するや否や衣服を脱ぎ去り水浴びを始めていた。
相当に疲労が溜まっていたと見える。開放されたような表情をしていた。
花冠の方はと言うと、小手を外して水に掌を浸していた。
染み渡るような水だった。しっとりと心地よい冷たさに肌を包まれていく。
この地に吹く風と同じような親近感を、花冠は水に対しても感じていた。
「花冠、貴様も来い。生き返るぞ」
「……いや。後でいい。先を急ぐ旅でもあるまい」
「だからと言え、この先また水辺が見付かるとも限らぬぞ。貴様も言うように、ここは余りにも奇妙だ」
「水なら、貴様が悟るだろう」
「ふん」
今はまだ、これと距離を取っておきたいような気がしたのだ。
清々しい水の温度に冷やされていくものを意識する。感触に和らげられていくものを認識する。
寄り添い囁きかける優しく穏やかな冷たさが。
不快だ。
「ところで花冠、身体の衰えは貴様も同じようだが……傷の具合はどうなのだ?」
思い出したように問いを投げられる。
「貴様の呪いも、衰えを迎えてはいないのか?」
「……変わらんな。思ったより根が深いらしい」
指先の水で無聊を慰めながらそう返す。
この傷について、花冠はこれ以上語る言葉を持たなかった。
軽い水音、涼やかなせせらぎに意識して耳を傾ける。
冷まされていく。醒まされていく。
快い。
遠ざかるそれが、ひどく。
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どれほど歩いていただろう。
気が遠くなるほどだった気もするし、瞬きの間に過ぎなかった気もする。
時間の感覚は最早曖昧だった。
それだけではない。
視覚も聴覚も触覚でさえぼやけて、自分がどこにいるのか、何をしているのかも分からない。
どうして。
何故。
自分は何を。
何を、したのか。
唐突に足が沈む。
前のめりに平衡を崩す。
身体が投げ出され、落ちていく。
見上げた水の色さえ既に、血に穢されて濁りきっていた。
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