21.缺落
例えばそのぬくもりを掌に収めたとして。
自分のものでないそれをどう捉えればいいのか。
どう捕まえることができたのか。
腕に収まった少女の身体が軽い。
自分がこわしたものだ。
違う、こわれてなどいない、だが、傷付けた。
軋んでいる。
何か、大切なものが。
歪み、砕けて抜け落ちていく。
掌に収まることなくすり落ちたものがある。
欠落だけが残っている。
それを知っている。
遠い。
お前はばかだなあ。
手が伸びる。
くしゃりと髪が指を通る。
黒く長い髪。真似て伸ばされたそれ。
瞳が見上げる。
笑えば同じように笑って、注げば返されて、遠いはずのそれが、残されることもない全てが。
違う。
違わない。
本当はその姿を見ていたのかもしれない。
最初から後悔に塗れていたのだろうか。
諦めて、選んで、それでも迷い続けたのだろう。
広がる血の色は、真朱ではなかったはずだ。
矮躯を抱く。
おやすみ。いい夢を。
守るとそう思っていたのだったか。
自分が支えるのだと信じていた。
笑う顔が疲れていて、ぬくもりは温かくて、
――帰りたくて、
帰りたい。
帰りたいよ。
膝を抱えて子どもが泣く。
親を求めて子どもが泣く。
その声もやがて聞こえなくなるのだ。
喰らわれている。
あなたにならばそれでいいかとも思う。
あなたにならば。
あなたであれば。
あなたであったならば。
あなたでさえあれば、それで良かったかもしれないのに。
************ * * * * * *
森を進む。
背後にフィンヴェナハの足音を聞く。
振り返らず歩き続ける。
ざわめきが近く総毛立つ。
ささやきささめく、奥底から響く声。
「こうして並び歩くのも、久しいな」
歩調を速めたフィンヴェナハが隣に並んで、波紋のように悪寒が広がる。
「それがどうした」
「二人きりと言う機会も、無かったからな」
「なあ、花冠。この間やったケーキとやらは喰ったか」
美味かっただろう、だとか、心震えたぞ、だとか。
フィンヴェナハの語る内容を、吟味する余裕がない。
眩暈がする。衝動がきつい。
血と膚の匂いが、むせ返るほどに近く感じられて息が苦しい。
これは呪詛だった。
知っている。
約束を破った末路だと、思い知らされ続けている。
「なあ、花冠」
繰り返される度掻き毟られる。
「貴様は未だ、我を不快と感じるか。この、煮え切らぬ弱さが」
「不快だよ。無駄に話を求めてくるところも」
足音が止まる。
構わず歩き続ける。
それで怒り、道を別つのならば、それでいいと思った。
それがいいと思った。
そうあることすら望んでいた。
「なればこそ」
だがそうではないのだろう。
そう簡単に、楽にはならないのだろう。
識っているよ、声が言った。
「あの時の、約束を此処で果たそう」
約束。
心に爪を立てるそれに力が籠もる。
その度何か、喪われていくような感覚を覚えた。
約束。
何を?
「約束だ、貴様が万全なる時に、再び相手になると。そう、交わしただろう」
刀が抜かれる。
暗い森の中、僅かに差し込む木漏れ日が刃を照らした。
ぎらついたそれに心が躍る。
ざわり。ざわりと。
殺意が嗤う。視界が半分、揺れて歪む。
血が集まり、どくりと鳴る。思考が蝕まれていく。
わらっている。
振り払うために小刀を握り込んで、振り払う術のないことを思い出す。
殺すしかない。殺してしまえ。
「あの時と同じだ、邪魔は無い。在るのは、我と貴様の形のみ。此度は手を抜かぬ」
問い返すことは諦めていた。
噛み合わないのが当たり前だった。
こんなに欠落を見つけているのに、他人と関わり合える筈もないのだ。
拒むには遅すぎた。
ただそれだけだった。
――擲つべき時を、
何を、言われたのだったか。
「殺されるなよ」
忠告するようにそれだけを言う。
望まないことだから、どうか、と、願うようなことはしない。
その資格は自分には残っていない。
その理由も残されていない。
ちろちろと脳裏に揺れる。
灼かれゆくことへの自覚がある。
「――代わり、我が勝ったならば……一つ願いを、聞いて貰うぞ。どうだ」
頭が痛い。
「内容による」
「貴様が勝てば、我も貴様の言を聞こう。好くままに、奪って見せろ」
必要ない。
切って捨てる。
馬鹿げたことを言うものだ。
奪えなどと吐けるのは、奪われるべき価値を持つ者だけだろう。
お前は自分がそれを持ち合わせているとでも思ったのか。
これの求めるものが、これの欲しがるものを、お前如きが持ち合わせているなどと思っているのか。
本気でそう思っているのだとしたら笑い話だ。
その驕りが憎らしく、その愚かさに落胆する。
それができるのは、
「お前から奪いたいものなどない。お前に与えられないものはある。お前が勝とうが負けようが、俺は俺を譲らない」
喉が、渇いたと思った。
口の中が乾燥している。
早く冷まさないと、と、本能が悟る。
それすら狂っている。小刀を構える。
「どうしても無理を通したいのなら俺を殺せ」
そうだ。殺せ。
早く殺してしまえ。
心の奥底で躍る気配。
一刻も早く見たいのだ。血に染まるその姿が。
もがき続けるその様を、何よりも強く愛しているのだ。
Copyright 2014 All rights reserved.