22.安寧の底

 刃の熱さが脳髄を揺さぶる。
 鳴り響く鼓動が、唸り轟く叫声が鼓膜を塞いで、視界さえも覆われていく。
 焦がれ続けたそれが遠い。

 手が届く。
 朱に世界を蝕まれて、意識が落ちる。



 いとおしげにささやく声を聞いた。







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 喉から刃を引き抜くと、傷口から鮮血が漏れる。
 こんなにも傷付けて、と、少し悲しい思いになる。
 大事なものなのに。

 遅れて湧き上がるのは怒り。こうして身を傷付けることになった元凶への。
 瞳を見開く。地に伏せたそれへと視線を向けた。

 ずっと、殺してやりたいと思っている。

「――はは。この、程度か」

 言葉を紡ごうとするたび、喉の傷が発声を妨げる。
 痛ましい。狂おしい。

 厭わしい。

「……やはり、届かなかった……」

 それが言う。
 羽虫のように力ない声だった。
 金色の目がこちらを見ている。この身体を見つめている。
 その瞳を抉ってやりたくなる。

 罵倒の言葉なら幾らでも出てくる。
 幾らでも、数限りなくこみ上げて、故に一言も言えはしない。
 唇がひとつしかない身をこんなにも口惜しく思ったのは初めてだった。

 それでも尚、愛おしい。



 何よりも誰よりも、強く求め続けている。



「お前の、勝ちだ……花冠」

 その名を呼ぶな、と、一言返す。

「お前如きが、我が物顔でその名を呼ぶな」

 思考に混じり込むノイズ、名を呼ぶ声、存在そのものの煩わしさ。
 苛立ち。殺意。未練。慚愧。
 渇望し続けているもの。

 愛している。
 告げるにはもう遅すぎたから、こうして歪に、囚えている。

 流れた血が服を染め上げて朱く、ああ、ああ、勿体無い。



 あかならわたしがいくらでも



 立ち上がる。
 今すぐにでも離れてしまいたいと、そう思って立ち去ろうとして、

「花冠……、お前、喉から血が……」

 声に一度、引き止められて呆れる。
 お前は何も知らないのだな。
 何も聞かされていないのだから当たり前だが。

 無言で振り返り、左目で睨む。
 ひけらかすように喉元を見せる。

 傷などとうに癒えていた。



「無様なものだな。その誇りすらも失い捨てたか」

 再び眼中に収めたその姿に、抱いた思いがそれだった。
 竜族よ。同族が見れば嘆くことだろう。
 種族の恥だと、お前を殺したがるかもしれない。
 自分の知る竜族は、それ程に気高く、誇らしい存在だ。

 ――ああ、いや。その心配すらないか。
 お前は最早ただのヒトに成り下がっている。
 あの誇り高き竜族に、同族であると認められよう筈もない。

 こちらの思いなど知ったことではないとばかり。
 何事か、嬉しげに目を細める姿が、煩わしい。
 視界に入れたくないし、入れられたくもない。
 触れられることすら許したくなかった。
 傍にあることすら認めたくなかった。

 なにゆえ望んでしまっているのか。



 目を逸らす。



 行くのか、と、声がした。
 花冠、と、名を呼ぶ声がした。
 どうして、と、苦い思いをする。

 おれを。
 花冠という名は、どうして、届けられたのだろう。

「追うのはもうやめろ。お前は最早害悪としかなり得ない」



 ――殺したい、殺したい殺したい殺したい、殺してしまいたい、殺せるものなら殺している。
 殺して手に入るのなら殺している。
 殺して奪えるのなら殺している。

 それを自分がしても無駄だから、置き去りにしたままに終わるから、手を下すことは選ばない。
 それでも殺したいと思っている。願い続けている。
 殺してくれと思っている。
 殺すべきだと思っている。



「……その執着が、ずっと、目障りだったよ」



 掌を黒く染めた子どもの姿。
 正体をなくした獣の唸り。
 叶わぬ願いを抱き続けて、全てを踏み躙り乗り越え進んで、失ったことを知ったあなた。

 癒すのならばわたしがいい。
 癒すのはお前との安息であってはならない。

 傷付けたくせにと心で吐き捨てて、今度こそ、その姿に背を向けた。







 血の抜けすぎた身体が重く膝をつく。
 改めて、不便なものだと思い知る。

 愛している。
 愛し続けている。
 狂っていることは知っている、苛んでいることを知っている、苦しめていることも知っている。
 それが悲しくて嬉しい。
 奥深くに根ざし続けていることが、この上なく喜ばしい。

 業が深いと自嘲する。
 愚かなのは自分の方だ。執着を捨てられないのも、それが目障りなのも。
 まったく、本当に、馬鹿げている。



 だから許せないし許さない。
 手放したくない。
 共に在りたい。



 おまえは、どうしてこたえてくれないんだ。


 いらえはない。
 残念に思って、諦めて意識を手放した。







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「――あなたは、山神さまでしょう?」



 薄汚れた一人の子どもが、人でなしへと伸べた掌。

 それがすべての始まりで、
 それが彼らの終わりだった。
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