25.あなたのはなし
被膜を破る。
薄氷を割る。
表層を剥がしていく。
あらわになった、それが、あなたの。
「――”何のために”、あの子どもを連れて来た?」
金色の瞳があかい深奥を睨む。
外套に身を包み、長い髪をひとまとめに結んだ青年の姿をした主。
それが問われてゆるり、口端を上げる。
「お前がそれを訊くか?」
「……」
おかしげな色。黙り込んだクロに、だろう、と目を細めて穏やかな声で。
それから視線を戯れる子どもと妖魔の眷族たちに戻す。目無しに髪を引っ掛けられて文句を言えば、面白がった周囲の眷族達までもが彼に群がり、怒鳴り蹴飛ばされて転がる。
もうすっかり日常となった微笑ましい光景がそこにあった。
当たり前の日常であると、錯覚させられてしまう光景だった。
そうだよな、と、主が言う。
「お前には最初から伝えた筈だ」
瞳は何も語らない。
子どもを見据えてその先に、子どもではないものを見通している。
それが何なのかクロには分からない。
この主の真意が分からない。
「……贄とするため。”真朱”で在り続けるべく、必要とされる器を育てるため」
「そうだ」
「だが」
だが、と言い募る。
主の肯定が軽い。焦った様子もなければ取り繕った訳でもないと分かる、それでも、だからこそ表面的に感じられた。
理由は分からない。ただ、心の奥が不穏にざわつく。
掴めない。
「貴様はあれを慈しんでいるだろう」
真朱はその起源を遥か神代まで遡ることのできる妖魔だった。
幾星霜を渡り歩き、密やかに君臨し続ける妖魔。時に神の血脈を汲んでいるとも囁かれる。
それがこの山の主で、異界の妖魔たちの庇護者で、子どもを浚った当本人だ。
生きとし生けるものを抱く大地に由来する、自然のままの色”真朱”。
その色を名に冠し、穏やかに世を睥睨する彼は、妖魔でありながら穢れや澱みを何よりも厭う清らかな性質の持ち主だった。
或いは。
永きを生き、強い力を備え身に付けたあやかしは、神に通ずる存在にも成り得るという。
真朱もその一例だったのかもしれない。彼が現し世や生き物に向ける視線――気まぐれな無関心は、なおざりな興味は、まさしく神のそれに近しく気ままで奔放ものであったから。
超越したものに通ずる性質に過ぎないのかもしれないが、それでも真朱は清らなものを好む誇り高き妖魔だった。
彼は人を喰らってきた。
真朱にとってそれは一種の身繕いであり、代謝行為に近かった。
現し世の空気は彼にとっては有害だったからだ。
ただ過ごしているだけで息苦しくすらあり、身の内に”穢れ”が溜め込まれていく。気が狂いそうなほどの苦痛。
精神的なものだけでない。事実、身を蝕む”穢れ”と、彼は常に共に在り続けていた。
純麗なるものを好み清澄でいることを願うその代償はあまりにも大きかった。
その代償を人に払わせることに、僅かの躊躇もしなかった。
くすり、おかしげに微笑んで主が答える。
「――ああ。愛い人の子だよ」
「だが、貴様の贄だ」
「それがどうかしたのか?」
不思議なことを言う。この主はそう思っていることを隠しもしなかった。
そもそもが、とクロは思う。隠す理由もないのだ。彼に隠さねばならないことなどない。
何を隠そうが、隠さまいが、彼はこの山の覇者であることは揺るがなかった。彼に逆らえるものなど存在しない。
気まぐれ一つの戯れで全てを壊してしまえるだけの力を彼は備えているのだから。
それが傲慢であることも、勿論彼は知っているのだろう。
視線の先。
眷族たちに潰された子どもが、見つけて近寄ってきたマシラにからかわれて何事か喚いている。転がり落ちてきたからっ角を掴んでマシラに投げつける、マシラはそれを避けてまたからかいを重ねる、逆上した子どもが妖魔たちを跳ね除けてマシラに飛び掛かる。跳ね除けられた眷族が散り散りになってから戻り、彼らを囲んで囃し立てる。
「……この世の倫理では、”愛している者を喰らうこと”は、正しいことなのか?」
その光景の長閑さが、それを暖かく見つめる主の姿が、ひどくちぐはぐなものに見えて。
低い声で問い掛けたクロに、やはり返るのは、笑み。
「正しく在ることに、俺は拘らんよ」
人を、愛していた。
清澄なるものをこよなく愛しながら、この妖魔は同じように、俗な性質を併せ持つ人間という生き物を好んでいた。
彼がこうして異邦の妖魔たちを率いることとなった経緯にもそれは顕れている。
行き場を失い彷徨っていた彼らがまず最初に考えていたことは、”新たな地で無力な人間を再び喰らう”ことだったのだ。
襤褸打ちにされ、身を崩しながらも、彼らには他の手段を見つけることが出来ずにいたから。
『それでは同じことの繰り返しであろう』
揺らぎ散り散りになる寸前のクロのかたちを眺めながら、涼しい顔でこの妖魔は言ったものだった。
ではどうしろというのだ。貴様のような圧倒的な力の持ち主に何が分かるものか。
言葉もなく睨み返したクロに、そう怒るな、と淡々とした声で返した彼は。
『ひとつ、約束を交わしてみようとは思わんか』
あまりにも気軽な様子で提案してみせた。
――棲家を与えること。庇護下に置いてみせること。
結界の中から出ないこと。村を襲って人を喰らわないこと。与えられるものを享受し、真朱の言いつけを守り、ただ、そこで生き続けること。
それを守り、彼に従い続ければ、永遠を与えてみせると豪語する。
その申し出はありがたく、要求は単純で、異邦の妖魔たちにとっては願ってもみないことだった。
だがそれ故にクロは訝しんだ。この約定で、真朱の側に何の益があるというのか。
『なに、簡単なことだ』
疑われようと、警戒されようと、彼はただ泰然とそこにあった。
当たり前だった。彼を脅かす者はこの場には存在しなかったのだから。
『育てたいんだ。人の子を』
故にこうして堂々と思惑を語ってみせる。
『俺の器と成り得る贄を』
真朱は生きているだけで穢れを溜め込んでいく。
自分の身体の中に、自分の妖気の中に、唾棄すべき穢れが這入り込み存在していることに、何よりも強い嫌悪を抱き生きる。
そしてその穢れが耐えられない程に蓄積し侵蝕し、気が触れてしまうその前に。
人を喰らう。
――喰らわせる。
”真朱”を喰らわせる。
自分を喰らった贄を内側から全て灼き尽くし、空っぽにして、そこに新たな”真朱”の棲家をつくる。
そうして”真朱”で在り続けるのだと言う。
自分を喰らった新たな器。今の身体もその一つに過ぎず、常に仮初の宿に仮置きしている状態に過ぎないのだと。
だが、されど、故なる”永遠”。消耗品を繋ぎ繋ぎ、繰り返される輪廻にも似て。
『次は上等な宿が欲しいんだ』
企みなどそこにはない。ただ彼は、無法に望む。
『逞しく強く頑丈で、長持ちする宿がいい』
子どもを見ている。
全身を泥だらけにして傷を作って、それでも挫けずマシラに掴み掛かり、乱闘を繰り広げる子どもの姿を眺めている。
その視線に潜む情の色を、意味を、この世の事情に疎いクロは理解し得なかった。
ただ、居心地が悪いものだなと、そう思った。
「俺はな」
唐突に声が聞こえる。主を見上げる。
「あれが”真朱”となる日を思うと、堪らない気持ちになるんだ」
どこか興奮したその声は、宥めるような、言い聞かせるような色を含んでいた。