26.かみさまの

 おまえのことを、待ち侘びているよ。







「また負けたのか」
「……うるせぇ」
「お前にクロはまだ早いよ」

 全身に傷を作って転がる子どもの隣に座り込む。
 血や泥に塗れて汚れたその姿は、或いは”痛々しい”と思うべきものかもしれなかったが、彼らにとっては全く当たり前の、無感動なものに過ぎなかった。いつものこと。どうせじきに治るのだから心配などしないし、されたいとも思わない。治るまでの間に何らかの不具合や不便こそ発生するかもしれないが、そんなことでさえ瑣末に過ぎない。

「やってみないと分かんねぇだろ」

 口答えする気力はあるが起き上がる余力はないようだった。ごろりと身体をこちらに向けて、じろり、上目遣いに睨まれる。
 何の迫力も感じない。ただ、

「彼我の実力差すら見極められずにどうする」

 ただ。

「……なんか、やれる気がしたんだよ」
「それでそのざまか。お笑い草だな」

 はっきりと軽侮を込めてやる。流石に癇に障ったのか身体を起こそうとして、走った痛みに身を折り曲げる。
 頬に爪痕、首に噛み傷。剥き出しの腕に打ち付けられた痕。擦り傷は全身の至る場所に。
 肌に刻まれた生傷の、乾き始めた赤黒い色。

 いのちのいろ。

「弱いくせに思い上がるからそうなる」
「……うるせぇ」
「それ以外言えないのか、お前は」
「うるせえ、っつって――!?」

 首を掴んで持ち上げる。
 背丈ばかりが伸びた子どもの身体はあまりにも簡単に持ち上がった。痩せ細っているという訳でもなと思っていたが、随分と軽いものだ。人の子はそういう生き物だったかと、些か今更に再確認。
 足をばたつかせて抵抗する子どもの、振り上げた拳が空を切る。

「お前は弱いよ」
「……ッ」
「弱い。俺の庇護がなければ、とうに食われて死んでいる」
「っ、そもそ……も、誰の……!」
「お前が」

 見返す瞳の、奥底に湧き上がるそれは憎しみか。
 足りないと思う。生温いと思う。
 その程度では、到底満足できやしない。

「お前が、弱いからだろう」

 この地に連れて来られたのも。
 山を降りられずにいるのも。
 こうしてろくな抵抗も叶わずにいるのも、何もかも。
 全てが。

 解放されて地面に落ちる。
 肩で息をする子どもの顔を覗き込む。睨み返される。やはり、それでもまだ。

「足りないな」
「……?」
「お前には足りないものが多すぎる」

 渇望しろ。
 安寧を享受する事勿れ。
 今を受け入れるな、流されるままでいることなど許されない、
 その腕で切り拓いていけ。

 でなければ、また、繰り返しだ。







『――なんかね』

『別にいいかなって、思ったりするんだ』



『それであなたが、生き延びるのでしょう?』







 ばさり、翼が広がる。
 目の前に広がったそれが、艶やかに朱く、美しいその翼が、

『――あなたは』

 始まりのあの日を想起させて、

『あなたは、山神さまでしょう?』

 引き寄せられるよう伸べた手が、間違ってはいなかったのだと、錯覚する。

 そのせいで家族から引き離された。
 そのせいでこの山に閉じ込められている。
 そのせいでこんなにも苦しい思いをさせられている。

 それなのに、それなのに。
 どうしてその選択が、自然なものであったと、錯覚してしまうのだろう。

 目の前の、人ではないモノが、
 恐ろしく憎らしいものであるはずなのに、その姿が美しいから。
 広げられた翼の、埒外の神々しさに見惚れて、心まで奪われそうになるのを、

「……おれ」
「?」

 緩く傾げられる首、表情は逆光に遮られて見えない。
 少しだけ安堵する。

「初めて、あんたを見たときは、」

 その姿は、目に毒だから。



「本当に、神さまなんだって、思ったんだよ――」



 尊んで。
 愛して。
 ただ眩しく見上げていられる。

 そうすることが許される相手であれば良かったと願ってしまう。
 それはきっと罪だった。

 あいするものたちへの、背信だった。







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 目を醒ます。
 背中にはごつごつとした固い感触、対照的に柔らかな絨毯の床。
 最初に目に入ったのは異形。跪く民の姿。彫り込まれた見事な彫刻。

 鳥の声は聞こえない。

 そうだ、城内の大廊下だ。
 一揆の最中で、成り行き上行動を共にすることになった赤毛の男と、敵や兵士の存在に警戒しながら進んでいる。
 その最中だ。どうして今更”醒めて”など、

 熱。

 喉を穿つ刃の感触が蘇る。
 ぞくりと背中を撫で上げる、慟哭にも似た怖気。
 あなたの囁く声。



 喉に手を添える。
 ――傷などとうに癒えていた。