27.狂える

 ひたりひたり。
 ひたり、ひた、ひたり。

 大廊下を一人歩く。
 人の形をした兵士の姿すらろくに見当たらない。時折異形がこちらの様子を窺っては身を潜め、或いは牙を剥き襲い掛かる。
 その全てをやり過ごして進んでいく。城内は薄暗い。仄闇が身体に馴染んでいく。
 ひどく落ち着く。

 囁く声を聞いていた。







 ――お前は本当に”喰らってきた”のか?



 闇を恐れたことはなかった。
 生まれつき”特別製”だった自分の目は、暗闇の中であっても変わらず周囲を見通すことができた。
 他の人間が夜を暗闇を恐れ、日の出に光に安堵する理由が、自分には分からない時すらあった。
 何も変わらないじゃないか。この闇の中も、日向の世界も。

 そう感じることがおかしいことで、他人とは違うことだと気付いたのはいつ頃からだったか。
 その頃にはもう自分は狩りに出ていて、家族や村人から頼りにされていた気がする。
 おかしいのは自分の目だけじゃなかった。耳も、身体能力も、いっそ身体の隅々のつくりまで、自分は他人とは違うのだと悟った。

 その理由が全く気にならなかったと言えば嘘になる。
 何故自分だけが。特別な血統という訳でもなかろう、両親も弟妹も至って普通の人間だった。もし父か母のどちらかが自分のようにおかしな体質の持ち主であったならば、父が狩りの最中に死ぬこともなかったし母が病気に罹ることもなかったろう。だが現実父は死に斃れ、母は病に臥した。自分にはどうしようもないことだった。
 自分に出来たことは父を失い、残された子を抱えて立ち尽くす母の為に狩りに出ることだった。そして自分の頑丈で鋭敏な身体はそのために大層役に立ったのだ。



 ――あの子どもは、お前を受け入れたのだろう。



 汚れた手が差し出される。
 目を細めて笑って、いいよ、と小さな声。
 全てを許すと、きみの望むようにと、そのための命だと。

 わたしはきみとひとつだから。
 だからすべて受け入れてあげる。

 その甘美に囁かる。



 ――故にお前は狂い果てた。



 その見霽かす真実の様が、酷く濁って、歪んでいる。
 お前は何を見てきた。
 お前はどのように在り続けた。

 それすらも忘れて、喰ろうた、などと。
 くだらない。本当にくだらない。



 おまえが喰らったのは、







 その気配に気付くのに随分と遅れたような気がした。
 踏み締めた足元、分厚いカーペットが足音を殺していたからか。
 異形に跪く民の彫刻に魅入っていたからか。

 或いは、お前も疲れているのかね。心の中呟いてから名を呼ぶ。

「フィンヴェナハ」

 呼ばれた側はそれでも隠れていたつもりだったようで、肩が震えたのは驚きにか、はたまた別の要因にか。
 言葉もないといった様子を不審に思いながら目を眇めた。

「何だ。隠れんぼでもしていたつもりか」

 そういえば姿を見なかった。
 いつ別れたのだったか。何か理由があったのだったか。
 共に在り続ける理由がないのだから別れる理由もまた必要とするはずもなかったが、それでも長い時を経て、共に在ることが自然であると感じるようになっていたのは事実だった。
 求められることに辟易こそすれど、その程度には心の織に存在感のある。

 認めないと喧しく。

「……花冠、どうして此処に……?」

 問い掛ける声がらしくなく細く揺れて、おかしな気分になる。
 お前がそんな声を出すなどとは。

「特別な理由は、何も。先ほどまでは同行者がいたが」

 この大廊下まで花冠を導いた赤毛の男とは先程別れたところだった。
 花冠と同じように長い間合いを持ちながらも膂力に欠けるところのある男だったため、道案内の対価としての護衛くらいはできたかと思っているが、その後のことまでは知るところではない。
 壮健であってくれればいいとは思うが。

「そうか……我も似たようなモノだが……」

 随分と目が泳ぐものだな。フィンヴェナハを眺めて不審に思う。
 何をまた自信喪失しているやら。龍になれなくなったとはいえ、龍であることをやめた訳ではなかろうに。これがその誇りを捨てることなど有り得ないのに何を気に病んでいるのやら。まったく理解に苦しむ。

「……よもや、また出会うことになるとはな」
「何か、笑えぬ縁でもあるのかね」

 喧しいものだ。これは口に出さずに彫刻を見遣った。
 異形の姿。跪くいきものたち。
 息を吐いた。

 花冠が歩み始めれば、またこれらしくもない、暫しの逡巡の後に足音が続いた。
 恐れるような距離が頑固に横たわる。気持ち悪い。胸の奥が騒立った。



「……貴様の要求を反故にするつもりは無い。悪かったな、此処を抜けたら直ぐにでも去ろう」

 唐突に奇妙なことを言い出したのは、やはりフィンヴェナハの側だった。

「要求?」

 自分はこれに何か要求を突き付けたのだったか。特別これに望むことなどなかった筈だったが。
 なにせ自分にはその権利がない。何もかも手遅れになるまで、手遅れになっても、真実を告げることをせずにいるのだから。
 無為に追い縋り勝手に振り回され、時にその姿を哀れむこともあったのかもしれない。

「……いや、再三と蒸し返すつもりはない」



 ――真に哀れなのは。



 すまなかった、花冠。
 勝手に何やら納得して締め括ったフィンヴェナハに花冠は向き合った。

「フィンヴェナハ。何の話だ」

 何の話をされているのか分からない。
 ひび割れていくものを自覚する。ぽっかりと抜け落ちた空白。
 そんなもの、ずっと前から、知っていたじゃないか。

「俺は、お前に謝られる覚えがない」

 フィンヴェナハは不意を打たれたような顔をしていた。
 再び、逡巡。躊躇いがちに口が開かれる。

「……お前の決めたことだ。 我は――」







 ――狂えているということは。
 自らの認識すらも、信用することができないということだ。