28.端ずるひと
夢を見るとき、その深さにいつも驚かされる。
自分の見ている世界が、踏み締めた大地から感じ取る全てが、表層のものでしかないことを改めて知らされる。
見た夢の数はもう数えきれないほどである筈なのに、それでもひとつ夢を見る度、ひとつ、新しいものを悟る。
例えば取り巻くものの歴史。
例えば世界を動かす仕組み。
例えば彼らの往くべき道筋。
”彼”はその全てを識り、見通した上で振る舞っていたのだろうか。
彼の運命。彼の求めるもの。
彼が犯したその意味。
――そんな筈はないだろう。
牢の中、幼い少女が彼の瞳を見つめている。
きらびやかな衣を纏った細い身体、無邪気な黒い瞳、無力なはずの小さな掌が彼の頭を捕まえて顔を覗き込み、にんまりと笑う。
圧倒的な力を持つ筈の彼は、それなのに、振り払うこともできないでいて。
『わたしは』
膜が掛かったように声が響く。
この声を聞いたのは彼だけだ。彼と、この少女だけだ。自分はそれを聞いてなんかいない。
だって自分の知らない人だ。
だって自分が知ることのない言葉だ。
『何も知らずにあなたを食らってきた、今までの子たちとは違う』
驚きに目を瞠るのは彼の方。そんな顔もするのか、と、自分の知らないその顔。なぜだか胸が空く一方で、少しだけ悔しい気分にもなる。あなたのその顔を見返して、笑ってやりたかった。
違うよ。少女が繰り返す。眇めた瞳が透き通り、幼い所作に見合わぬ迫力で彼を射抜く。
その中にいびつに詰め込まれ、煮詰められた情愛の正体が、今の自分には分からない。
ただそのあまりにも鮮やかで苛烈なさまだけが。
『だからわたしはあなたを喰らってやらない。あなたは困る? それともなんとも思わない? 私を殺す? そうしてまた探す? 繰り返す?』
『……お前は何が言いたい』
『まあ、随分と冷たい言い方』
くすくすと零された笑みはやはり幼い少女のそれとは程遠く、いっそ妖艶ですらあった。
細められた目の奥に、やはり狂おしく、彼を見ていた。
『別にいいじゃない。あなたはわたしを好きにすればいいって言ってるの。比良坂の護りだって簡単に突破しちゃうあなただもの、わたしのことだって、いくらでも好きにできるんでしょう』
『……』
『あなたの好きにすればいい。わたしを、滅茶苦茶にしてしまえばいい』
でも喰らってはやらないのと言う。
好きにさせてはあげるけど、喰らってはやらないと繰り返す。
『……本当にお前を殺すぞ。必要なのは、お前という個人じゃない』
『……ふふ』
『それでいいのか?』
おかしげに笑う少女は、問われて笑みを深めたなら、なんかね、と。
『別にいいかなって、思ったりするんだ。――それであなたが、生き延びるのでしょう?』
『……だったら素直に俺を喰らえばよいものを』
『それはだめだよ。いやだもの。あなたに灼き尽くされちゃうなんて、我慢ならない』
『殺されるのは別にいいのか』
『そっちは、別にいいの』
いいの、と繰り返す。後ろで掌を組んで振り返る、慈しむように視線を和らげて、
『それ以外は、視えてないからいいの』
『千里眼の巫女か』
『そ。……だから言うけど、そろそろ行った方がいいよ。わたしを浚ってくれるんじゃないならね』
うるさい人たちが来ちゃう。
おかしなやつだ、そう返して天井を仰ぐ。なるほど人の声がする。
『お前は浚ってほしいのか?』
『浚ってほしいって言ったら、あなたはどうする?』
『……』
いらえのないまま、少女の前から姿を消す。
ほらね、と少女はまぶたを伏せた。
『――そういう子でしょう?』
声が聞こえる。目を醒ます。
違う、覚醒などしていないと気付く。まだ囚われたまま。腕が、あなたの、あなたが。
『……ねえ、あなた、あなただよ。大丈夫、あってる』
その中に一つ、幼いそれがあることに、どうして今まで気付かなかったのか。
『ありがとうね。彼を拒んでくれて。……彼、なのかな、どっちでもいいけど。わたし、あなたにとても感謝してるの』
淡々と紡がれる声の奥底に、やはり濃密な、そうだ、これは狂愛だ。
今の自分は知っている。執着だ。何もかもを求めて慈しみ求めるそれだ。
あなたの抱くそれと同じものだ。
――あなただ。
『あなたはわたしでもあのこでもない。ただの、関係のない、巻き込まれただけの被害者。わたしの戯れに、彼の踏み外した道筋に』
でもそれが、と甘やかな声で、
『それが、あなたで良かったと思うわ』
霞の向こう、夢の果て。
絡まった糸が、意図の行く末が、未だに自分には掴めぬままでいる。