29.毒と憎悪

 微睡みのうちに失っていくもの、遠ざかる背中に、手を伸べることを諦めたのは、全ては自分の選択の結果であることを知っているからに他ならない。
 誰のせいでもない自分自身の過ちに直面してその意味を悟り、悔いに膝を折ったとて、何一つ戻ってくることはない。そのことも同じく知っていたから。

 それは罪で、咎で、贖うべきもの。
 贖うことの叶わないもの。
 隔絶された果て、流れた時に全てを絶たれて、その正しい姿さえも忘れてしまっていたのではないかと。

 穏やかな時間の裏で、彼らは。
 すり抜けていくものすべて、行き着く果てすらも、知るすべはもう残されていない。



 笛の音だけが耳に響く。
 あなたのゆめを拐っていく。







 実際のところその所在を探ることは容易いことだった。
 これはあれを蛇蝎の如く嫌っており、存在を嗅ぎ付けるたび喧しくざわめき出す。

 ――何故お前がそこにいる、何故お前が存在している、何故お前が生きている。

 胸の中、禍々しさを煮詰めたような怨嗟が肌に馴染む。
 それが本質であると知る。

 或いは。

「フィンヴェナハ」

 無視して名を呼べば振り返る姿に財布を投げ付ける。
 以前出会った際に忘れられていったものだった。どさくさ紛れ、逃げるような足取りは全くこれには似合わずに。

 投げ付けたそれはフィンヴェナハに命中し、そのまま地面に転がった。虚しい乾いた音。

「忘れ物だ。……なんだ、鈍いな」
「こう幾度も、思考の範疇外の事態が続けばな……」

 やたら重々しげに吐き捨てる様子はどこか諧謔じみて見えた。
 実際はそんなつもりはないのだろう、緩慢な動作で財布を拾う、その動きが重々しく気怠げだ。
 それを構うこともない。足を進め、歩み寄る。

「そんなに驚くことがあったのか」

 身を逸らしたそのさまは、あるいは再び逃げようとでもしたか。
 相変わらず”らしく”ないとおかしげに、或いは嘲笑うそれにも似て。

 どろりと煮詰まったその振れに、時折引きずり込まれそうになる。

「……貴様が、そもそもの要因だろう。何故、戻ってきた?」
「落とし物をしたのはお前の方だろう」
「それは、そうだが……」

 萎らしげに顔を俯ける。
 はじめからこのように淑やかであったなら、これの逆鱗を撫でることもなかったかもしれない。
 その時はこうして同じ時を過ごすこともなかったのだろうと思うと、なるほどどうにも噛み合わないものだと思う。
 うまいこと世界は、うまくいかないようにできている。

 或いは。
 あるいは。

 積み重なる仮定は澱のように。

「――それと、告げることが」

 足を止める。
 弾かれたよう、僅か挙げられた面の下から、なんだ、と問い返す声。
 俺はお前を受け入れない。そう告げた。



 そうだろうな、と納得の声は覇気に欠ける。
 本当にこれらしくないと、面白がるのを越して面白くなかった。
 その程度か、と身勝手に。
 その程度さ、と身勝手に。

 切り捨てるまでもないのだと。



「だが、俺にお前を拒む権利もない」

 続けた言葉に、変わらぬな、と。
 諦めたような響きが気に食わず、奥底で酷く心地良い。
 それでいいのだと身に馴染む納得尽く。

「その権利とやらを賭けて剣を交えた結果が、先日の有り様であろう」
「……そんなものを賭けたか?」

 花冠としては当然の疑問だった。
 何を賭けた覚えもない。自分が負けたとて、何を譲るつもりもなかった。
 ただ殺せとそればかり。
 無理を通したいのなら、奪いたいものがあるのなら、殺してから考えろと。

「賭けたのはお前だけだ。俺はあの戦いに何を賭けた覚えもない」

 その時には何も残っていないから。
 ”自分”は何一つ残されていないから。

「仮に負けたとて、俺はお前を受け入れるつもりはなかったのだから」
「……だが」

 だが、と繰り返し言い倦ねるその様子が、花冠には理解の及ばぬもので、
 何を躊躇っているのかと苛立つ。

「……だが、貴様は確かに」

 ――何を失くしている?

「二度と、追い縋るなと……」

 意識せねば聞き逃しそうなほどに小さな声だった。
 一度瞬き。
 その姿を見返す。

 暫し、沈黙。

「……よもや、憶えて居ないとは言うまいな」
「いや――そうか」

 そうか、と、やはり納得を重ねる。
 これはそんなことを。



 缺落、断続、空白。
 突き放す。
 微睡みの一方で支配するモノ。
 突き付けた要求。

 随分と大人しいじゃないか、と、今度は胸の裡に問う。
 お前は殺すことを選ばなかったのだな。



 ――殺すのなら。
 殺すのならお前でなければならないよと、あまくやさしくささやく毒。



「何を、独りでぶつぶつと言っている」
「なんでもない」

 息を吐く。
 困った駄々っ子だな、と呆れに嘆息。その意味を教える必要もない。
 ただ、伝えるべきことだけを口の端に乗せる。

「俺がそう言ったこと、それをお前に求めたことも事実だろう」

 花冠が求めたこと。
 それは事実として何一つ否定することも叶わない。
 否定するつもりもない。全ては自分の意思として受け入れるのだと決めた。
 共に在るものをそのままに。

「……だが、お前がそれを受け入れなければならない道理はないよ」

 髪を纏める紐を解く。
 指に絡んだその感触に、引き留めるような抗議の錯覚。



 フィンヴェナハは呆けた様子でこちらを見ていた。
 振り回してばかりだな。今更のように思う。
 それを望まれたことはなかったろうに。

「……何のつもりだ?」
「言葉だけでは、分からんだろう」

 その腕を取る。
 人肌に近い温もり。灼熱とは程遠いそれから伝わるかのような、黒く濁った嫉妬が肌の内側を焼く。
 感情は熱を持つものであると、いつから当たり前のように知っていたやら。



 手首に紐を括り付ける。
 解けぬようにと結び目に、指先で徴を残したなら、

 それでは足りぬと口付けを刻む。







「――『居所』だ。俺はお前を拒まない」

 言い残すだけ。
 全てを委ねるその狡さも何もかも自覚した上で、ただ、身を尽くす憎悪に浸り甘えた。