30.狂騒
どろり、と。
深く奥底でのたうつ感情のかたちが歪んでいく様を、常に全身で感じていた。
それは自分自身であったから。
癒着して切り離せないその蠢きに苛まれることはとうに当たり前になっていたし、それを抑えるべく努力を重ねることもまた、当然の義務として自身に課していた。
――どうして自分が。
そう運命を呪ったことは、あっただろうか。
風に運ばれ来、鼻を突いた血腥さに刀鍛冶は眉を寄せた。
人里から離れ争い事とも程遠い山中の庵には似つかわしくない臭い。だが、それを連れ込む人物に刀鍛冶は心当たりがあった。
――相も変わらず迷惑な話だ。溜息をついて立ち上がり、庭を出る。
牙の鳴る音。獣の唸り声。
張り詰められた空気、充ち満ちた空気の中央、噎せ返るような血臭を纏い、一人の男が這い蹲っている。
ばきり。
がぎ、ごぎん、ごぎゅり。ぎぢ、ぎぎぎ、ぐぢゃ、べぎょり。
耳を塞ぎたくなるような不快な音は、その男の身体の中から発せられている。
そのたびそのたびひとでない形に背中が曲がり身が拉げのたうち、突き破った骨が翼のかたちを目指し、折れ曲がっては少しずつ、ひとの形へと収まっていく。
周囲を取り巻く野生動物。
狼や猪それに大鷲、或いは熊。
すべてが敵意を恐怖を露わに牙を爪を剥き出しに、その男を取り囲んでいる。
「おい」
「……ッ、あ」
「払うぞ」
返答は待たない。元より期待していない。
刀を突き立てる。地を踏み締める。
爪先から波紋のように広がった”気”が、地を木々を何より獣たちを奥底から震わし、そうして僅か、醒まさせていく。
それは一瞬。だが波は狂気を浚って、彼らの意識の矛先ごと、遠く遠くへと連れ去っていった。
刀鍛冶の繰る結界術。
簡易のものであったが、獣たちの気を逸らすには十分だった。ひと睨みに止めを刺す。
蜘蛛の子を散らすように姿を消していく獣たちを見送ることもせず、刀鍛冶は男へと視線を落とした。
横たわる男に意識はない。いつしかぞっとするような動きも、耳障りな音も止まっていた。
投げ出された腕の指先までも赤く染まり凄惨であったが、刀鍛冶は眉一つ動かさない。
ただ、疲れたように呆れたように息を吐いた。
それは彼が戦っていたもの。
人の身体に、人でないものが異物として這入り込んで、彼であろうとしたことを拒否したが故。
囁く声を捩じ伏せて、伸びる掌を振り払って、ひたすらに荒れ狂う”暴力”と、常に彼は戦っていた。
研ぎ澄ましたのは技倆。
嫌ったのは人のものでない膂力。
本能を手放して、理性で以て、”自ら”の力を武器とするべく。
彼は。
「――何用かね、隠忍よ」
「お前の肉は、美味いか?」
その時にはもう、十分に”それ”を制御できていた筈なのに。
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ぼぎり、ごっ、ぎぢゃ――ぐぎ、ぼごががっ、ぢゃぎ、ぐちゃぐぎぎぢり、がぎがが、ぼごん。どずり。
いっそ懐かしさすら感じる。ここまで酷いのは久しぶりだな、と自嘲した。
自分の力が失われた代わりにエンブリオの力で”これ”を抑えてきた筈だったが、いい加減どうにも、手に余る。
或いは挑発しすぎてしまったか。
自分が。自分の選択が。
――何故、を叫んでいる。
お前が殺せ。選択しろ刃を向けろ、断ち切れ、踏み躙れ、お前は憎んでいるはずだ。お前は。お前が。お前こそが。
それが最早誰に向けられた憎悪かすらも分からず、ぐちゃぐちゃに掻き乱れた感情に引きずられて頭がくらくらする。
気分が悪い。
逃れる先に木々の生い茂る森の中を選んでしまうのは、何に誘われた結果だろうか。
腕を見下ろす。独りでに形を歪め突き出した骨がいやに白く、対照に肉が、血が赤い。
自分は今、どういうなりをしているのだろう。背中が熱い。痛みだろうか。首も、なんだか、不格好に歪んでいる気がする。喘ぐ唇が濡れている。喉に血が注がれる。意識が眩む。視界が狭い。闇が深い。
ただあの日に見た、
――艶やかに朱く、美しいその翼が、
目に心に焼き付いて、未だに。
程遠い。
地に臥した背中から生えた、真っ黒い、けれど血に塗れて赤いこの翼では、似ても似つかない。
どうして。口が動く。声は出ない。
なにゆえにうしなはれてしまったのだらうと
幾つもの獣の唸り声がする。自分の内からではない、確かに、居る。
血臭に呼ばれたか。それとも人でないものの、獰猛な気配に引き寄せられたか。
何もかも自分の知ったことではない。
――ばきり、なにか鳴る音がした。