4.延長線上
子どもが叫ぶ。
全身を汚して疲弊を隠し得ず、纏った襤褸ごと身体を引き摺り、何かを睨めつけ激情のままに叫びを上げる。
その顔を悲痛に歪ませ。
その声には悔悟を滲ませ。
その掌に黒い血を浸して。
「――この、馬鹿野郎が!」
叫び続ける。
理不尽に激し、憤怒を抱え、行き場のない感情の矛先を求め。
絶叫、叫声、あるいは悲鳴。
その全てを聞く者は、他にいない。
「なんでだよ! ――なんで、なんで」
膝を折る。
力を無くして地に蹲る。
汚れた頬を一筋、透明な涙が伝って濁った。
「なんで、こんなこと、しなきゃいけなかったんだよ……」
その姿を見る者も、また。
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釣餌が澄んだ水面に波紋を立て揺れる。
糸と枝と餌だけで作った簡素な釣竿を片手に、花冠は静か思考に耽っていた。
トーコ=リハウンド。
ウィルフレッド=ヒルテンベルガー。
この地で出会った咎眼の少女とその同行者の名前だ。
そして彼らは、今の花冠とフィンヴェナハの同行者でもある。
ウィルフレッドは兎も角、咎眼の者であり出自を同じくするトーコの方にこの事態を打開する――元の、世界に帰る――方法を求められないかと考えたが、そもそもが彼女がこの地に来たる事情も自分たちとは全く異なるらしく成果は芳しくない。
彼女が”そう在る”ことも、恐らくその事情に関係しているのだろう。
咎眼と呼ばれ立ち尽くし。
友だちが欲しいと言っていた。
空虚に透けて、大切なもの一つを喪失した、淋しがりの魂。
尊いもの一つを抱いて揺蕩う、一人の少女。
手応えを受けて竿を引く。
口に枝を引っ掛けられた一匹の魚が、身を震わせてこちらを見遣った。
もう一人、ウィルフレッドの方はそもそも出身が同じかどうかも分からない。
花冠が彼から嗅ぎ取ったのはあまりにも濃い煙草と硝煙の匂い、それと、戦場に身を置き続けた者の気配だ。
恐らく花冠よりもフィンヴェナハよりもその性質は日常は戦いに近い。
言動こそ軽く誤魔化しているが、照準器越しに花冠を観察する瞳は熟練の猟犬よりも鋭かった。
花冠とフィンヴェナハ、トーコとウィルフレッドの間で行った手合わせに於いて、最後に立っていたのも彼だ。
その技巧の一つを封じて尚、戦場に於ける彼の優位は覆らなかった。
――勝負、アリだろ?
膝を付いた花冠に銃口を向けて、ウィルフレッドはそう笑っていた。
二匹目。
先程の魚と同じく底に葉を敷き詰めた籠へ入れ、捕まえた餌を小枝に引っ掛け再び水面へと放り込む。
波紋が広がる。
獣の吠え声が聞こえる。
フィンヴェナハは何を考えているやら。
自分たちの身体能力の衰えは確実に感じていただろう。だがそれがこうして明確に、手合わせに負ける、という形で示されてしまったことに、あるいは衝撃を受けているかもしれない。
あれは龍だ。矜持が高く自らの力に絶対の自信を持っている。
その根幹を大きく揺さぶる追い打ちにならなければ良いが。
とはいえ、花冠にできることは少ないだろう。
根幹を揺るがされども、フィンヴェナハの抱く誇りに疵はない。
余計の気遣いや心配はあれにとっては侮辱になりかねないし、花冠も彼女の尊厳を損ねることを望まなかった。
求められれば可能の範囲で助力をする。
でなければフィンヴェナハの自由にさせる。
そうして五十年を過ごしてきた。
踏み締める土の色が変わろうと、その関係までは変わらないのだ。
ぱしゃり、水が跳ねる音がした。
「……」
魚影が離れ消えていく姿が見える。
竿を上げ、餌だけが食べられていることを確認する。不覚であった。
あまり気を散らすものではないな、と餌を付けて再び放る。
獣は鳴く。
鳥は囀る。
魚は跳ねる。
そういった長閑な風景を花冠は好ましく感じる。
この地には、そういったものが溢れているようにも思えた。
釣り上げた魚の数を数えて、こんなものかと釣竿を片付ける。
また魚かとフィンヴェナハには文句を言われるかもしれないが、水辺を行く以上はこれが一番効率が良い。
まずは餓えずにいることが至上命題なのだから。
川の水で指先を清める。
この地の水は澄み渡り青い。清流と呼んでもよいだろう。
不思議に煌めく川の流れは、異世界が如く幻想的だ。
心地良い冷たさに手を冷ましたなら軽く水を振り払う。
それから徐ろに抜いた刀で、その掌を貫いた。
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子どもが泣いている。
子どもが哭いている。
子どもが啼いている。
憎らしく哀れで愛おしいその身を、包み込むことはもう叶わない。
その代償に手に入れた。
いびつな楔に陶酔を重ね、愛しき永遠を手に入れた。
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