36.成し遂げられぬことなど
貴様に、
成し遂げられぬことなどなにもないだろう。
フィンヴェナハが花冠に向けて放った言葉だった。
他愛ない、――他愛ないと表現するには些か緊張感に満ちすぎている、
しかし口論ではなく、お互いに敵意もなく、そういった何事もない会話の中で落とされた一言。
それが波紋を広げて、
それを聞いたのは、
目覚めたのは。
「――巫山戯るなよ、フィンヴェナハ」
声は低く落ちる。
奥底に煮え滾り波打つその主を、誰かも知らぬままに膨れ上がる。
ぴり、と張り詰めた空気。
頬を切られるような錯覚。
あるいは、切り裂く自覚。
「”成し遂げられぬことなどない”俺が、こうしてお前と旅を続けるとでも思ったか?」
もし、成し遂げられぬことがないのなら。
望みを叶えられるなら。願いを遂げることができるのなら。
それを躊躇う理由がどこにあるだろう。
自分が冀うそれから、どうして距離を取ったままでいることだろう。
そんなにも無為で、無欲で、無気力である筈がどこにある。
お前は知っているだろう。
お前は知らないのか?
知らないのならどうしてまだ、この男と共に在り続ける。
どんな顔をして、――どんな面を下げて、この男の隣を歩けるというのだ。
お前ごときが。
烏滸がましいと羨む心が、奥底で這い回り無様にのたうつ。
「……貴様に、成し遂げようとすることが……有ると、言うのか?」
張り付いたような掠れ声だと思った。
ああ、お前も無様だ。嘲笑う。
「成し遂げられたらと、願うことは多い」
「ならば……今、貴様が願っていることは何だ?」
「……――今じゃない」
ああ、本当に何も分かっていない。
ああ。ああ。
馬鹿な竜族、おろかな竜族。
時ばかり重ねて、時だけ重ねて、
その深淵をどうして覗かない?
どうして覗けない?
こんなにも幼く哀れな男の、迷える子どもの乱れる隙間から、いくらでもこじ開けられるだろう?
白日の下に曝け出して、抵抗を抑えて泣き叫ぶ声を殺して呑み込んで、そう、全てを呑み込んでしまえばよかろうに。
どうしてそれをしない?
どうしてぬるま湯に浸り続ける?
愚かで哀れで妬ましい、
お前にはそれができるのに。
お前はこの男に触れる腕を持っているのに。
そうしてだから、全てを封じて組み伏せて、背けられた顔を暴けたならば、
浮かべられた表情の官能のさますら、お前は知らないままでいるのだ。
「今じゃない。ずっと願ってきた。ずっとだ」
低く低く、唸るように声が続く。
ずっとだ。血を吐くように、静かで、苛烈な。
鋒を失った。
「……ずっと、ただ一つだけを俺は願い追い続けてきただろう」
拳を握る。
関節が白く色を失う。
立てられた爪が掌を掻き、このまま引き裂けてしまえたらと思う。
全てを引き裂いて、何もかもを忘れて、ただひとつに懸想できたなら、それがきっと幸いだったのだろう。
「叶えられんよ。知っている。……成し遂げられることなどなにもない」
家族に会いたかった。
なくした家族。
失くした家族。
亡くした家族。
手放して、手繰り寄すことも叶わぬまま、掌からは零れ落ちた。
拠り所。愛していた。愛されていた。あたたかい居場所。
自分の帰る場所。
故郷。
失われたもの。
「ならば、何故為さぬのだ」
フィンヴェナハが言う。責めるような響きすら伴う。
どうしてお前たちはそうなんだ。
どうして、いつも、願えば、為せば成るのだと、それが叶えられる望みであることを前提に。
お前の怠慢であると。お前が動けば叶えられるとでも言うように、どうして、どうして。
どうして。
「叶えられんからだ」
「出来たはずだろう、貴様ならば」
伸べられた手を、弾く。
触れられたくもない。確かな嫌悪が指先に篭もる。
それは、ずっと、ずっと。
この身体を傷つけたお前が大切な大切なこの私のあなたの何も知らないくせに新参者が私と君の全てがここにあってだから来
ないで立ち入らないでそんなことできないと思うけど実際できてないから笑えてしまう図星でしょうなにか言い返してご覧なさいって嗤ってやりたい嘲笑ってやりたい、来ないで、来ないで! 触れないで乱さないで、悩ませないで、なかせないで!
なかないで。
ねえ、真朱。
「容易く言ってくれるな。……ふざけるなよ、竜風情が」
声は、震えていたかもしれない。
みっともないのは自分の方だ。
自分は、誰だ。
「出来たはず? 何を知って何を語る。……お前は何も分かっていないだろう」
お前は。
ああ、それでも、声が乾いている。
「――失われた命を取り戻せると、為せば成ると、そう言っているのだぞ」
背中。
子どもの背中。
家族を追い求めて、帰りたい、かえせ、そう叫んで、
それがひしゃげて、血に沈む。
最期はずっと、同じ姿だ。