5.灼熱の揺りかご

 お前はいつだって怒るのだな。
 もう随分と長く、あの耳朶を擽るような穏やかな声を聞いていない気がする。
 耳を刺す咆哮ばかりが、耳を、胸を。

 受け容れないのは罪だったろうか。
 共には往けぬと、自らの道を歩むのは罪だったろうか。

 誰が赦し、誰が裁くというのか。
 その答えすらこの手では捉え得ぬ。
 求めるあまりに握り潰して、掴み取ることなど叶わない。



 ――ああ、全く、煩くてかなわない。
 いい加減に機嫌を直してくれ。
 お前のそうして怒り狂う様は、俺にとっても哀しいものであるのだから。







************ * * *  *   *        *







 ずる、と、湿った生温さが額から滑り落ちるのを意識する。
 遅れて覚醒。薄く目を開けたなら、こちらに手を伸べた白面の刀鍛冶の姿が目に入った。
 雑に纏められた黒く艷やかな乱れ髪が、揺れる。

「……――、ッ」

 名を呼ぼうとして、喉が引き攣れて上手く声が出ないことに気付く。
 その様子を見てか刀鍛冶は、めったに動かさない表情筋を、恐らく呆れと呼ぶのであろうかたちに歪めてみせた。

「……貴様はいい加減、玄関先を血で汚すのをやめろ」

 誰の家だと思っている。
 硬い声にも呆れが含まれていたか。
 伸ばした手で濡れ布巾を取って、桶で絞り、再び額に乗せられる。
 冷たさが肌を浸す。
 熱が冷まされていく。

 醒まされていく。



 刀鍛冶は花冠の顔を暫し覗き込んだのち、何に満足したのやら、それとも用事でもあるのやら、外へと出て行ってしまった。
 開け放たれた戸から差し込む木漏れ日は青々しく、風にささめく木の葉擦れの音が耳に優しい。
 微風に頬を撫ぜられ、濡れた髪が揺れた。

 この家は、落ち着く。
 人里離れた山中で、忘れ去られてただ一軒佇むこの庵には、どこか心を慰められる。
 ひどく、穏やかな時間だった。

 その暖かさを甘受して瞼を伏せるその前に、目の端にちらついた白塗りの鞘に視線を移す。
 収められた刃の柄が、滑らかに掌に収まったその感触を思い出す。



 切っ先を喉に突き立てた際、奔った灼熱の激しさも。



 近く遠く、叫び声が、聞こえた。

 それで意識を失ってこうして寝込んでしまったのだから、昔のような無理は利かなくなっていると判断して良さそうだった。
 刀鍛冶には申し訳ないことをしているとは思うが――朗報だった。少しずつでも、前に進むことが出来ている。
 その腕を、振り払うことが叶っている。



*** *  *



 熱が引くまでは一日。
 喉の傷が癒えるまでは三日。
 その間に詫びとして狩り伏せた猪が一頭。

 譲り受けた刀が、一振り。



「毎度喉を貫くのも、そろそろ支障が出るだろう」

 餞別にと投げ渡されたそれは、花冠の持っていた物と対照の黒塗りの鞘に収まっていた。
 握る感触にぴりりとした違和感。
 抜き放った刃の色に、はっきりと見出される禍き色。

 魔を断つそれであると、一目でわかった。

「それなら喉でなくとも抑えきれよう。……若気の至りも程々にしておけ」
「若気の至りとは、参ったな」

 五十年かそこらを生きた程度ではまだ若造扱いである。
 外見は花冠より若くすら見えるこの青年は、しかし遥か永くを生きた神代の刀鍛冶だった。
 そして、花冠以上に浮世離れしており冗談が通じず、遊び心も持ち合わせていない。
 ……つまりは、本気で若気の至りだと思われているのだろう。全く以て心外である。
 とはいえ、実際に迷惑をかけた以上、花冠から反駁の言葉は出ないのだが。

「お前の鍛えた刀か?」
「なまくらだが。幾分か、役には立とう」

 これをなまくら扱いとは。呆れが過ぎるが、本人にしてみれば謙遜でも何でもなく本音なのだろう。
 刃の色が眩しく、鞘へと収めて一つ息を吐いた。



「……貴様は」

 その声音は、この刀鍛冶には珍しい、躊躇いに似た色を孕んでいたように思う。
 黒い双眸がこちらを見ていた。
 掌に収めた刀から胸を、喉を、瞳を、視線でなぞり眉を寄せる。

「心の臓を貫けば済むとは、理解しているのか」
「……」
「貴様のまま在るためであれば、それが一番手っ取り早い」

 見透かされている。
 その瞳に、黒耀に、深く深く、奥までを。
 だから頭を過ぎった下手な誤魔化しなどは、すぐに放って口を開く。

「――諦め切れんのだと言ったら、お前は嗤うか?」



 あなたのかいなを斬り捨てて、刹那に似た永遠を生き存え、ただその先の遠くまで。
 いつか囚われることを許容する日が、永久に来ないことを願っている。



 暫し、沈黙。
 双方が寡黙な性質であるため、常は気にならない筈の静寂が――今日ばかりは、重く肩にのしかかっていた。
 居た堪れなくなった訳ではないだろう。だが先にそれを破ったのは、刀鍛冶の方だった。

「貴様は、保たん。幾度魔手を断ち切ろうと、それは対症療法に過ぎない」
「解っている」
「貴様が貴様で在り続けることは、叶わん」

 訥々と語る彼を見返す。
 何も映さぬ左の瞳に、けれど、幻影に似た姿を見た。

 朝日に伸ばした白い掌は、何も掴めず地に落ちるのだ。

「貴様の場合は――長く生きる程、深く未練を遺すのだろう」
「……」
「擲つべき時を見過ごすな。……機を逃したならば、最期は」

 獣が哭いている。
 遠くで吼える声が聞こえる。

「貴様の最も望まぬ形で、全てを喪うこととなる」



 ――その瞬間を、花冠は既に、知っていた。



*** *  *



「行くのか」
「ああ。……そろそろ、見つかると良いのだが」

 故郷を探し歩いてもう何十年になるやら。
 ただ風と土の匂いを頼りに、当て所なく彷徨うだけの旅。
 その最中に、居心地の良い土地は幾らか見つかりはしているが――自分の故郷を見つけるまでは、どこかに腰を落ち着けるつもりはなかった。

「用向きあらば獣でも狩って来い。汚さなければ歓迎する」
「ありがたい話だ。――世話を掛けたな、徒花」

 笠を被り直し、一応の見送りに来た刀鍛冶を振り返る。
 餌を求めて無防備な雀が、彼の足元に集まりつつあった。

 そういった穏やかさをこそ、恐らく彼は、愛していたのだ。



 ――出立した花冠が自らの故郷に辿り着くまで、暫し。
 そしてその地で、かの龍に見初められるまで、また暫し。



 旅路の末にメルンテーゼの土を踏みしめるまで、また――







************ * * *  *   *        *







 ――ああ、ほら、また怒る。今日はまた一段と喧しい。
 気に入らないことがあるとすぐに喚くのでは、それこそ幼子と変わらないではないか。
 俺に宥められるなど、恥ずかしいとは思わないのか。
 その矜持すら喪ってしまったのか。

 全く、ろくに声すら届きやしないか。
 奔放なものだな。羨ましい。
 いや――もう完全に、狂ってしまったということなのだろうか。



 聞こえているか、真朱?
 お前の好きな音を奏でてやろう。
 耳を劈く絶叫の中でも、その片鱗くらいは、届くだろうと思うから。

 届いてくれよと願うから。
Copyright 2013 All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-