5.灼熱の揺りかご
お前はいつだって怒るのだな。
もう随分と長く、あの耳朶を擽るような穏やかな声を聞いていない気がする。
耳を刺す咆哮ばかりが、耳を、胸を。
受け容れないのは罪だったろうか。
共には往けぬと、自らの道を歩むのは罪だったろうか。
誰が赦し、誰が裁くというのか。
その答えすらこの手では捉え得ぬ。
求めるあまりに握り潰して、掴み取ることなど叶わない。
――ああ、全く、煩くてかなわない。
いい加減に機嫌を直してくれ。
お前のそうして怒り狂う様は、俺にとっても哀しいものであるのだから。
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ずる、と、湿った生温さが額から滑り落ちるのを意識する。
遅れて覚醒。薄く目を開けたなら、こちらに手を伸べた白面の刀鍛冶の姿が目に入った。
雑に纏められた黒く艷やかな乱れ髪が、揺れる。
「……――、ッ」
名を呼ぼうとして、喉が引き攣れて上手く声が出ないことに気付く。
その様子を見てか刀鍛冶は、めったに動かさない表情筋を、恐らく呆れと呼ぶのであろうかたちに歪めてみせた。
「……貴様はいい加減、玄関先を血で汚すのをやめろ」
誰の家だと思っている。
硬い声にも呆れが含まれていたか。
伸ばした手で濡れ布巾を取って、桶で絞り、再び額に乗せられる。
冷たさが肌を浸す。
熱が冷まされていく。
醒まされていく。
刀鍛冶は花冠の顔を暫し覗き込んだのち、何に満足したのやら、それとも用事でもあるのやら、外へと出て行ってしまった。
開け放たれた戸から差し込む木漏れ日は青々しく、風にささめく木の葉擦れの音が耳に優しい。
微風に頬を撫ぜられ、濡れた髪が揺れた。
この家は、落ち着く。
人里離れた山中で、忘れ去られてただ一軒佇むこの庵には、どこか心を慰められる。
ひどく、穏やかな時間だった。
その暖かさを甘受して瞼を伏せるその前に、目の端にちらついた白塗りの鞘に視線を移す。
収められた刃の柄が、滑らかに掌に収まったその感触を思い出す。
切っ先を喉に突き立てた際、奔った灼熱の激しさも。
近く遠く、叫び声が、聞こえた。
それで意識を失ってこうして寝込んでしまったのだから、昔のような無理は利かなくなっていると判断して良さそうだった。
刀鍛冶には申し訳ないことをしているとは思うが――朗報だった。少しずつでも、前に進むことが出来ている。
その腕を、振り払うことが叶っている。
*** * *
熱が引くまでは一日。
喉の傷が癒えるまでは三日。
その間に詫びとして狩り伏せた猪が一頭。
譲り受けた刀が、一振り。
「毎度喉を貫くのも、そろそろ支障が出るだろう」
餞別にと投げ渡されたそれは、花冠の持っていた物と対照の黒塗りの鞘に収まっていた。
握る感触にぴりりとした違和感。
抜き放った刃の色に、はっきりと見出される禍き色。
魔を断つそれであると、一目でわかった。
「それなら喉でなくとも抑えきれよう。……若気の至りも程々にしておけ」
「若気の至りとは、参ったな」
五十年かそこらを生きた程度ではまだ若造扱いである。
外見は花冠より若くすら見えるこの青年は、しかし遥か永くを生きた神代の刀鍛冶だった。
そして、花冠以上に浮世離れしており冗談が通じず、遊び心も持ち合わせていない。
……つまりは、本気で若気の至りだと思われているのだろう。全く以て心外である。
とはいえ、実際に迷惑をかけた以上、花冠から反駁の言葉は出ないのだが。
「お前の鍛えた刀か?」
「なまくらだが。幾分か、役には立とう」
これをなまくら扱いとは。呆れが過ぎるが、本人にしてみれば謙遜でも何でもなく本音なのだろう。
刃の色が眩しく、鞘へと収めて一つ息を吐いた。
「……貴様は」
その声音は、この刀鍛冶には珍しい、躊躇いに似た色を孕んでいたように思う。
黒い双眸がこちらを見ていた。
掌に収めた刀から胸を、喉を、瞳を、視線でなぞり眉を寄せる。
「心の臓を貫けば済むとは、理解しているのか」
「……」
「貴様のまま在るためであれば、それが一番手っ取り早い」
見透かされている。
その瞳に、黒耀に、深く深く、奥までを。
だから頭を過ぎった下手な誤魔化しなどは、すぐに放って口を開く。
「――諦め切れんのだと言ったら、お前は嗤うか?」
あなたのかいなを斬り捨てて、刹那に似た永遠を生き存え、ただその先の遠くまで。
いつか囚われることを許容する日が、永久に来ないことを願っている。
暫し、沈黙。
双方が寡黙な性質であるため、常は気にならない筈の静寂が――今日ばかりは、重く肩にのしかかっていた。
居た堪れなくなった訳ではないだろう。だが先にそれを破ったのは、刀鍛冶の方だった。
「貴様は、保たん。幾度魔手を断ち切ろうと、それは対症療法に過ぎない」
「解っている」
「貴様が貴様で在り続けることは、叶わん」
訥々と語る彼を見返す。
何も映さぬ左の瞳に、けれど、幻影に似た姿を見た。
朝日に伸ばした白い掌は、何も掴めず地に落ちるのだ。
「貴様の場合は――長く生きる程、深く未練を遺すのだろう」
「……」
「擲つべき時を見過ごすな。……機を逃したならば、最期は」
獣が哭いている。
遠くで吼える声が聞こえる。
「貴様の最も望まぬ形で、全てを喪うこととなる」
――その瞬間を、花冠は既に、知っていた。
*** * *
「行くのか」
「ああ。……そろそろ、見つかると良いのだが」
故郷を探し歩いてもう何十年になるやら。
ただ風と土の匂いを頼りに、当て所なく彷徨うだけの旅。
その最中に、居心地の良い土地は幾らか見つかりはしているが――自分の故郷を見つけるまでは、どこかに腰を落ち着けるつもりはなかった。
「用向きあらば獣でも狩って来い。汚さなければ歓迎する」
「ありがたい話だ。――世話を掛けたな、徒花」
笠を被り直し、一応の見送りに来た刀鍛冶を振り返る。
餌を求めて無防備な雀が、彼の足元に集まりつつあった。
そういった穏やかさをこそ、恐らく彼は、愛していたのだ。
――出立した花冠が自らの故郷に辿り着くまで、暫し。
そしてその地で、かの龍に見初められるまで、また暫し。
旅路の末にメルンテーゼの土を踏みしめるまで、また――
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――ああ、ほら、また怒る。今日はまた一段と喧しい。
気に入らないことがあるとすぐに喚くのでは、それこそ幼子と変わらないではないか。
俺に宥められるなど、恥ずかしいとは思わないのか。
その矜持すら喪ってしまったのか。
全く、ろくに声すら届きやしないか。
奔放なものだな。羨ましい。
いや――もう完全に、狂ってしまったということなのだろうか。
聞こえているか、真朱?
お前の好きな音を奏でてやろう。
耳を劈く絶叫の中でも、その片鱗くらいは、届くだろうと思うから。
届いてくれよと願うから。
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