42.呪

「お前の名はなんと言うんだ」

 尋ねられた子どもは小刀を砥ぐ手を止め、ひどく嫌そうな顔でこちらを見上げた。

「……なんでそんなこと訊くんだよ」
「名前がなければ呼べないだろう」
「お前なんかに呼ばれたくない」
「つれないな」
「当たり前だ」

 つんとそっぽを向かれる。再び砥石で刃を整え始める。
 この子どもを連れてきて以来ずっとこんな調子だ。
 怪我したところを手当してやるにも、熱を出したのを看病してやるにも、意地を張って敵意を隠さない。
 やりづらいことこの上ないが、だからこそ微笑ましく愉快だった。

「……名前は、この世で一番短い呪だって」
「ふむ?」
「里の大爺が言ってた。……だから、お前なんかに教えられるか」

 ぶすっとした調子で言い放って、なるほど道理である。
 この子どもは一端にこちらに対する警戒を続けているのだ。
 身一つで連れ去られ、山を下りることも制限され、有るべき芽を、未来を摘み取られても尚。

 許さないでいる。

「お前が名乗らないのなら、俺がお前に名付けてやってもいいんだぞ」
「……は?」
「呼ぶのに困るからな。考えてやろう。この山でのお前の名前だ」
「いや、ちょっと」
「村のお前とは違う、新しいお前になれるのではないか。祝福してやる」
「ちょっと待てって!」

 声を荒らげ、怒りのままに睨み上げる視線は怯えなくまっすぐだ。
 この目が好きだな、ちらと思う。

「何が不満なんだ」
「何もかもだよ。なんで俺がお前に名前なんか付けられなきゃならないんだ」
「駄目なのか? お前に相応しい名を考えてやるぞ」
「間に合ってる! ふざけんなっ」
「ふざけてなどいないが。そうだな、お前は――」
「あーあーあー! うるさい! あっち行け!」

 砥いだばかりの小刀を振られて、ひょいとそれを避ける。どうやら霊験あらたかな品らしい。
 とはいえ少しばかり斬られた程度では大した損傷にはならないが、それを見せつけられるのも癪というものだろう。
 追い払われるままに大人しく退く。

「……名乗りたくなったら、――あるいは、名が欲しくなったら、いつでも言えばいい。お前の望むようにしてやろう」
「じゃあ、俺を早く里に帰せ!」
「それはできない相談だな」

 くつくつ笑って、身を翻した。







 ――花冠。



 既に名は決めていた。
 頭に被る、花で編まれたそれではない。
 風に揺らぎ容易く弄ばれる、されど目を引く美しさの。

 儚い刹那に舞い落ちるその、見る者の心に強い印象を残すひとひらを、彼の姿に見出していた。



 ――花冠。



 或いは既に。
 愚かにも時に。
 違えてしまっていたのかもしれないと、

 惹かれてしまっていたのかもしれないと、今になって、



 ――花冠。







 ――いつまで”そう在る”つもりだろう。
 既にお前は、その殻を破れるはずではないか?



 いいやその殻は、とうに破れてしまってはいまいか?