46.化生の身
夢遊病患者とはこのような心持ちなのだろう。
夢と現が定まらない。
意識が途切れては浮上し、気付けば一人、気付けば二人、気付けば誰かと、気付けば、気付けば。
意識のない間は身の内に響く声のことを忘れていられたが、或いはその声のことすらも忘れているだけなのかもしれない。
信じるべきを見失う。自らの依拠が揺らぎ傾いで移ろいて、ただその名残に縋る。
――あれとは、
いつ、別れたろうか。
頭がくらくらする。
酩酊したように、ただ、風に従っていたのだろう。
面を上げれば懐かしい光景が目に入る。
この世界を訪れたばかりに嘗て歩んだ、色彩豊かな庭園。
あれから長く短い時を過ごし、歩みを進め城の奥深くを目指し突き進んでいたつもりだったが、なんだ、存外簡単に戻れるものではないかと思った。
若しくは気付かぬうち、ひどく長い道のりを戻っていたのか。
帰巣本能に従う獣のように。
――だがここに自分の故郷はない。
自分の求める、自分が恋しく思う、あの暖かく懐かしい地はこの世界には存在しない。
どこにもない。
再確認し、言い聞かせながら、だが晴れやかな気分にもなりつつあった。
頬を撫でる穏やかで暖かい風。爽やかな草のにおい、応じて上がるさやけ声。
この場が、取り巻く全てが、疲弊して消耗した心を優しく包んでくれているように感じられた。
錯覚でも構わないと身を任せる。
陽光の中を歩く。
どうやら未だに一揆衆は新たな参加者を募っているようだった。
道を歩くその多くがどこか緊張した面持ちで、その多くが人間の形をしていて、
けれど、その多くは、人間とは違った。
――お前にはこちらの方が相応しい。
そのような考えがするりと心に忍び込む。
いつからだろう。そう囁かれているようにも思えた。
それは裡に響き渡る狂おしいこの声とは違う、別の誰かの声で、
それはあまりにも自分に馴染みすとんと落ちる。
相応しくなかったのだと言うのだ。
人の道を外れた化生。
人並の人生も営めない外れ者。
そのくせ焦がれて、そのくせ憧れて、されどとうに諦めて、叶わないものを羨み眺める。
選んだ生き方を、虚しくはないかと哀れむように。
この世界であれば。
この世界であれば、恐れられることも少なかろう。
食材が動き、無機物が踊り、人智を超える力の跋扈するこの世界であれば、何一つ諦めずともよいのではないかと。
それは錯覚で、この世界でも諦めなければならないことは多く存在するが、それでも、それでも故郷での暮らしに比べればと。
既に存在しないふるさとに焦がれて、故郷に帰るよりもいっそ。
せせらぎは優しく耳を打つ。
軽い水の音。涼やかで清廉な響き。
――これもまた、懐かしい。
呼び寄せられるようにその川辺に辿り着いていた。
同じだ。この世界を訪れたばかりの自分に、この川で水浴びや釣りをした。
あの頃はまだエンブリオの力にも不慣れで右も左も分からないといったさまで、片っ端から人を捕まえては質問を投げかけたりなどした記憶がある。今思えば迷惑な話だ。それでもあからさまに嫌な顔をされたことはなかった。
故に心地良さを覚える。
故に囁きは甘く沈む。
心地良い清流の畔で、先程まで行動を共にしていた金髪の青年からの選別を頬張る。
甘い味がする。南瓜と、砂糖と、なんだろう。元いた世界で、あれが面白がって貰ってきた菓子の味だ。
舌に強く残る主張の強い甘味。
熱に触れて融ける柔らかい感触。
そういえば、あれは、こういった目新しいものをやたら好んでいたか。
菓子を平らげ、掌に視線を落とす。
身動ぎするたび四肢を持ち上げるたびに覚えるまとわりつくような熱。
それはこの地を訪れてより常に自分に付き纏ってきたものだ。
がなりたてる叫び声と同じく、常時付いて回るものだった。
「…………」
そう、だから、
あの時も同じようにそれを冷やした。
水浴びの序でにと熱を逃がして、自分は逃れた。
誘われるように川面に手を浸す。
皮膚を撫でる柔らかい冷たさに安堵の息を吐いて、
――どろり、
瞬間、指先から。
清流に従い、何か、大切なものが抜け落ちるような錯覚。
それは長い間自分に付き添っていた、何か大きく、清涼なうねりが呼ばれるままに誘われるままに、そうだ、これは星屑の光る水辺でいつしか、気付かぬうちに自分の奥に忍び込んでいたあの、
「……待、」
て、と。
声にする前に。
幻影を追って、手を伸ばす。
捕まらず落ちていく。
揺らめく視界、沈んでいく、見上げれば光を受けて輝く水面、反して暗い、川の底。
既視感。
奥底から手招く何かが目を覆い、射し込む昏、知っている。
懐かしくて息が苦しい。
うまれたあのひを、おもいだす。