48.殺して
花冠がフィンヴェナハへの『殺意』を自覚したのは、そう遠い日のことではない。
初めて出会った時。
フィンヴェナハが花冠を殺そうと爪を振るったその瞬間でさえ、花冠は殺意なく刀を振るった。
自らを害し、ひいては故郷の脅威となり得るものを排除する。ただそれだけの行為に過ぎず、ただそれだけの行為に殺意を必要とはしない。
そのように花冠は在った。
求婚を受けた際。
子を成すのだと迫られた時に抱いたそれもまた、殺意という形には成り得なかった。
ただ肚の奥底でざわめく灼熱の気配だけは内腑で感じていた。
この時花冠は既に自分の身体の中に巣食うモノを受け入れていた。
それは自分を生かすモノ。根を張り時に囁くモノ。
狂愁と執着に塗れた掌で頬の裏側を撫ぜるモノ。
求め続けるモノ。
嘗て言葉を交わした成れの果て。
身を蝕み、存在を示す。
自分の中に在る自分でないモノを許容しながらも花冠は既に、自分にとって心地良い協生の在り方を得ていた。
荒れ狂う身の内を抑え込む。生まれからして徒人ではない花冠はその術をいつしか知っており、常に耳を囁き意識を喰い荒らさんとするそれを、自らの胆力で制御することができていた。
「――お前は超常の血を引いている」
生まれからして徒人ではない。そう評したのは、嘗てのそれだ。
「それ自体は珍しいことではない。平凡な山里に生まれ、周囲を凡人に囲まれたお前がシノビの眷属であることには驚いたが――先祖返りというやつだろう。やはり、珍しくはない」
「お前のその力。人並み以上に狩りに優れ、人並み以上に頑丈で、人並み以上に鋭敏である所以はそこにある」
「お前のようなシノビの眷属は、通常、社会にその力を隠して暮らすものだ」
「異端である。その一点に於いて、俺とお前は変わらない」
「どちらも同じ、逸れの者だ」
故に拐かされ。
故に魅入られ。
故に異端に対抗し得た。
メルンテーゼで目覚めてすぐに、その力が失せていることを悟る。
それは身を巣喰う異端に対抗する術を失ったのと同義だった。
だから、騒ぐ。
長い間抑え付けられていたそれが、少しずつ本来の力を取り戻して、耳に囁く。
エンブリオの力でそれを抑えようとしたが付け焼き刃だった。どうしても足りない。
自分がその力を使い熟すよりも、中に存るもうひとりが存在感を増していく方が早い。
心地良い協生の在り方。
それはあくまで花冠にとってだ。
圧を受けていた側にしてみればその限りではない。
膨れ上がる。
広がっていく。
喧しく騒ぐ。
本来の力を取り戻す。
そうして意識は揺らいでいく。時に奪われて、”花冠”は眠る。
眠らずとも心を塗られる。望みを、想いを、情愛を、嫌悪を錯覚する。
五感を震わされて、認識を誤認していく。
――『殺意』は。
それが抱くものだった。
同時にまた花冠が抱かねば意味がない。
お前が、お前の意思で殺さなければ、その手を血で染めなければ意味がない。
そう囁いて目を覆う。
フィンヴェナハを突き放すそれが、しかし、殺すことをしないのはそこに理由がある。
こんなにも憎く殺してしまいたいと思っているのに、自分が殺しては意味がないのだ。
それはあまりにも簡単で、あまりにも単純で、あまりにも魅力的な選択であるにも拘らず。
『――殺してよ』
そうして心を私に預けて。
『ひとつ』になろうと、願い続けている。
そう、思っている。