6.ゆらめきざわめき

 繊細なつくりをした瞼が震え、その瞳を薄く覗かした。
 身体を起こし、ゆらりと視線を彷徨わせる。焦点の定まらないそれが何を捉えられたやら。
 それでも子どもの上気した顔はこちらを向いていた。

 触れようとした先を乱暴に払われる。
 その動作に痛みを伴ったのか、荒い息遣いに表情が歪んだ。

「大人しくしておけ」
「……うる、さい」

 喘鳴の狭間に毒づく。負けん気の強いことだった。
 かと思えば身を支えきれずにうつ伏せる。敷かれた毛皮に顔を埋めて、頻りに背中を上下させる。
 今度は強情を張る気力も尽きたか、大人しく擦られて息を漏らしていた。
 水気の滲んだ首筋に長い髪が張り付いている。

「昨日から酷い大雨だったからな。休めばよかったものを」

 暫く返答はなかった。
 ただ、息遣いだけが雨音に紛れて洞窟内に響く。

「……たに」
「ん」
「あんたに、こんな風に看病されるとは、思わなかった」



「あんた、一体――何がしたいんだ」



 乱れ髪の隙間から覗いた眼光が、弱々しく、鋭い。
 これだから面白いと、子どもの頭を軽く撫でた。

「――何か、話でもしてやろうか?」







************ * * *  *   *        *







 快癒を待ち侘びる掌に水の冷たさが染みる。
 その痛みを無視して手拭いを絞り、傍らの人影の額に載せた。

 川辺で突然意識を失い倒れたフィンヴェナハは今、苦しげに息を乱して横たわっている。

「………」

 処置として二人分の外套を敷布として、布団代わりに羽織を被せた。
 その結果今の花冠はごく軽装となってしまっているが、この季節では寒さなど感じなかった。

 揺れる焚火を眺めながら、迂闊だったかもしれない、と一人考える。
 龍族の身体は花冠が思う以上に頑強で、人間の身体は花冠が思う以上に軟弱だった。
 そして、花冠が思う以上にフィンヴェナハは、その差に対応し切れずにいた。

 冷静に考えれば当たり前なのだ。フィンヴェナハの生き方はまさに力任せと表現すべきそれである。
 だが、彼女の豪快なやりようは全て、持って生まれた龍族としての膂力に支えられたものに過ぎない。
 人の身に落とされた今、最早通用する筈もないものなのだ。

 だから易々と体力を切らす。
 だから体調を崩し、熱など出す。

 それがフィンヴェナハの作法なのだからと正さなかった花冠にも責任はあるだろう。
 一方で、そこまで節介を焼き、面倒を見てやる道理が花冠にあるのかと考えると疑問が残る。
 ――ましてや、その権利が。
 自分の余計がフィンヴェナハの矜持を疵付けはしないか、この地で花冠は常に案じていた。



 随分と、余計な面倒を背負い込むものだ。
 打ち棄ててやれば楽であるのに。
 ――いっそ。



 掠れた呻き声に引き戻される。
 視線を向ければ、龍の双眸がこちらを向いていた。――否。今はもう、人のそれか。
 熱に浮かされて表情が歪む。

「起きたか」

 落ちた手拭いを手に取り水に浸す。汗に濡れて額に張り付いた前髪を指先で分け、露わになった額へと戻す。
 そうする間も、フィンヴェナハは呆然と花冠を見ていた。

「……花冠」
「どうかしたか」
「……どうやら、我にも死が近付いて来たようだ」
「大袈裟だ。世迷い言を言っていないで眠っていろ」

 案の定と言うべきかフィンヴェナハは、自分の身に何が起こったかすら理解していないようだった。
 元の世での旅路の際に、何かと本を読み込んでいたように思ったが――その知識は、人の身に起こり得ることは、自分とは程遠いことと考えているのか。花冠には理解しがたい思考回路だった。

 眠るよう促す花冠を無視して、フィンヴェナハは言葉を続ける。

「嘗て無い程に身体が思う様にならぬ。白雪に抱かれるよりも激しい悪寒と、茹るような熱が我の中で同伴しているのだ」
「ただの熱だ。休めば治る」
「如何に体躯を刻まれ、鋼で貫かれようと、このような虚脱感を感じ得たことは無かった」

 どうやら満足するまで黙ってはくれなさそうだ、と判断して花冠は口を閉じた。
 随分と喋るものだと内心舌を巻く。この分では大事はないだろう。
 元気そうで何より、と言うべきか――とんだじゃじゃ馬である。
 話をせがまれるより楽であるが、話をせがまれるより感心しない。無駄な消耗を招くだけだ。

「貴様の身体には、変異は無いのか?」
「ない」
「そうか」



 頻りに自分の話を聞きたがった少年の、あどけない顔を思い出す。
 自分は何の話をしてやったのだったか。狩りの話と山の話と、巡り会った様々の生き物の話と、それと、何があったか。
 全てが遠く曖昧であったが、今も昔も自分が話してやれることは大差ないのだと思うと、少しおかしかった。
 ――そして、懐かしかった。

 愛おしむことを、許されるだろうか。



「……このまま、我が死んだら」

 また何を言い出すやら。
 フィンヴェナハを見ると、彼女はぼんやりと視線を宙に彷徨わせていた。
 何か見えているのだろうか。
 何も、見えてはいないのだろうが。

「貴様は、一人で行くのか」
「死体を引き摺って歩く趣味はないな」
「そうか、道理だな……」

 額の手拭いの温さを確認する。桶を引き寄せて、再びそれを取り替える。
 包帯に滲む赤を、見ないふりをした。

「心地良いな……」

 吐息混じりにそう零して、フィンヴェナハは瞼を伏せた。
 そのまま眠ってしまうかと思ったが、まだ喋り足りないようだった。
 再び口を開く。

「では、我が動くこと適わぬようになれば、貴様は、行くのだな」
「そうなる」
「ならば」

 獣が、啼いた。

「もう、行くのか。花冠」
「貴様が死ねば。……その程度では、死なんだろう」

 大袈裟であると、眠れば治ると告げたはずだったが伝わっていないようだった。
 最早これは譫言に近かろう。
 そもそもを考えると、一連のやりとり全てが譫言と言えるのかもしれないが。
 魘されているのだ。ずっと。

 ずっと。



 足を引っ張られて視線を向けると、フィンヴェナハの指先が花冠の足を捉えていた。
 いや、捉えていた、と表現するには弱々しいか。指先が、下服の裾に引っ掛かっている。
 引き寄せようと震える腕に、力が入らない。

「まだだ……」

 見下ろす。
 這い上がるよう、逃さぬようにと、重い身体が手が伸びる。
 さながら、縋り付くように。

 フィンヴェナハのありようからは、酷く遠く。
 服を掴む感触が、求めるようで、乞うようで、



 それを容易く払い除けた。



「馬鹿をしていないで眠れ。無駄な体力を使うな。治るものも治らなくなる」

 フィンヴェナハから身体を引き、距離を取る。
 それをまた追い縋るよう、今度はフィンヴェナハの身体が起こされた。
 腕を掴まれる。

 鈍重な動作。馬鹿げた執着。

「まだ、行くな……」

 ため息を吐いた。
 そして伸べられた腕を掴む。
 身体を引き寄せて、一撃拳を突き入れる。

「行くな、花冠……」

 確かな感触の後に力の抜けた身体を受け止め、元の通り外套へと寝かせた。乱れた羽織を再びかけてやる。
 埒の開かない問答に、花冠は価値を見出だせなかった。ただ体力の消耗を呼ぶだけのそれに。
 何よりも――



 桶の水が温くなっていた。……少しばかり、汚れてもいるか。
 中身を取り替えるため、桶を片手にその場を離れ川辺へと向かう。
 獣の啼く声が聞こえる。
 喧しいものだと、ぼんやり思った。



 左の掌が殊に痛む。
 じくりじくりと、傷が存在を主張している。
 その疼きが鬱陶しい。

 掴まれた腕が殊に熱い。
 熱が焦燥に似た集まり方で肌を引く。
 その感覚が煩わしい。

『まだ、行くな……』

 吐息に紛れたその声に、奥深くがざわめいている。
 伝わる皮膚の感触と熱さ、引き留めようとする声、それらを形成する全てがただ。



 ひどく、疎ましかった。







************ * * *  *   *        *







 意識を落とした子どもの身体を撫でながら、雨の止んだ空を眺める。
 雲間に覗く碧空の淡さが目に染みる。遠く果てあるものへの懸想を思い起こす。
 それはこの子どもから自分が奪い取り、そして与えるものだ。

「ん……」

 小さな声。
 温もりを求めてか身体を摺り寄せて、再び寝息を漏らす。
 幼い仕草だった。



 そう、幼い子どもだった。
 少しばかり雨に打たれ、身体を冷やしただけで体調を崩す、脆弱な身体の持ち主だった。

 それが、こんなにも。

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