50.あの日

 強撃を受け傾いだ巨体が地に倒れ伏す。
 掌に残った確かな手応えが、神経を通って全身を、身体の奥、心の底を鷲掴みにするような感覚。
 間違いなく、昂揚していた。

 それは強敵との邂逅故か。
 或いはそれを膂力で捻じ伏せることに快を見出すが故か。

 戦いのたび自らの欲と本質に直面する。
 遠ざけたはずのそれに囚わるる。



 ――そう、近づきつつ在る。
 その影が。蝕むモノが。

 あなたが。



 はじめてそれを知ったあの日の記憶は、掠れているくせひどく鮮やかに生々しい。
 血の臭い。その都度呼び起こされている。



 そうだあの日も同じように、乾いた風が吹いていた――。







************ * * *  *   *        *







 狩りの最中だった。

 その子どもは既に青年と言えるほどにその身の丈を伸ばしていた。
 山道を駆ける足取りに最早危うさはない。
 落石が敷き詰められるように転がり、隙間を茂る育った雑草が視界を覆う、人間にはあまりに険しい獣道。
 その隙間を造作なく縫い掻い潜り、掌に握った小石を逃げる猪へと投げ放つ。

「ギッ――」

 小石が猪の脚部を抉る。
 たたらを踏み、減速したところに跳びかかり、首を捉えたならあとは彼の独壇場だった。

 その小石は青年が研ぎ澄ました鏃だった。
 人の行き来のない山奥では武器も自前で作らなければならない。それを苦にすることもなくなるほどに、彼は最早この山地での生活に慣れ切っていた。



 ――そう。既に日常として受け入れつつあったのだ。
 家族への思慕も、故郷への未練も確かに胸に懐いたまま、しかし結果として適応してしまっている。

 それに忸怩たる思いを抱かないと言ったら嘘になる。
 だが彼はもとより他を愛し、自らを取り巻く環境を、与えられるものを崇敬し、恵みを享受したなら友に分け与える、そういう生き方を良しとする穏やかな気性の持ち主であった。
 攫われたとて。理不尽に直面し、運命に嘲弄されたとて、その気質が変わることはなく――故に彼は、憎むべき仇であるはずの妖魔たちに、仲間意識さえ覚えてしまっていた。

 彼本人はそれを否定しよう。だが振る舞いは明らかにその事実を裏付けていた。
 人の価値観とは全く別に生き、加減を知らぬところはあれど、無邪気かつ友好的に接してくる妖魔達に、針を立て続けるのには限界があった。
 彼は、とうに、仲間であると。楽しい遊び相手であると。頼れる同胞であると。
 そのように異邦の妖魔達からは認識されつつあった。

 人は共に歩む相手を求める。
 そうせざるを得ない心の隙間に入り込むその手腕は、果たして邪悪な化生のそれであったのかもしれない。



「っし、これで暫くは食えるかな――っと、……?」

 事切れた猪から手早く地を抜いたところで、青年は妙な”臭い”を嗅ぎ付けた。
 血の臭いとは違う。だがひどく腥い、胸の底に痼を残すような気味の悪い臭いだった。
 ざらりと五感を撫ぜられるような感覚を覚えて眉を寄せる。
 乾いた風が運ぶその臭いが、喩えようなく不快であった。

「なんだ……?」

 このような臭いは初めてだった。
 自分を攫った妖魔の親玉が好むように、山は常に清廉な気を保っていたから。異常事態と言っていい。五感とは違う感覚が、胸の中でぞわりと揺れる。俗に言う胸騒ぎというやつだった。

 鼻を鳴らして風を辿る。
 山の主ほどではないにせよこの地に慣れ親しんだ青年にしてみれば、その根源を突き止めることなど朝飯前であった。







 ――それでもその光景を目の当たりにする答えに辿り着くことができなかったのは、心のどこかで”それ”を否定したがっていたからかもしれない。

「……っ!? あんた――」

 行き着いた先、彼の好んだ、清流を見下ろすことのできる岩場。
 吐き捨てられた粘着く黒い液体が、生芽を端から汚し呑み込んでいく。

 その場に這い蹲っていたのは紛れもない彼だ。
 幼き日の青年をこの山へと攫ってきた妖魔。気高く美しい、神格すら湛えて笑う絶対的存在。山の覇者。
 青年にとっての全ての元凶。

 それが無様に地を伏せ、異形の貌を晒け出している。

 人の姿を形取っていたはずの背中が、ごきり、ぼぎりと有り得ない方向に歪曲しては戻り、その端から黒い突起が突き出し花開く。それすら形を定めずに、けたけたと嗤い開く裂け目から真っ黒い汚濁を溢れさせ吐き溢す。
 ぼどりと粘質の強いそれが落ちて、小石を溶かしては広がり奇妙で醜悪な形に凝固する。這いずり伸ばされた掌が塊を掻き毟り、節くれた指を汚していく。
 折れた骨が擦り合わされるような怖気のする音がひっきりなしに響いている。力ない、だが嫌悪感を齎す呻き声が耳を打つ。啜り泣きにも似ている。黄泉の国で夫を待ち詫びる女神の怨みにも。
 身体から伸ばされかけた黒いモノが、ばきばきと何かを折りながら羽のように天を目指して広がる。それを腕が掴み、引き千切る。形を保てずどろりと融けて身体を汚す。その矢先からまた同じように黒が生える。今度はもっと歪に、もっと穢らわしく、もっと悍ましく。

 風は乾いていた。
 そのくせひどく粘ついた空気がその場を支配していた。

 どぐりどぐりと、
 怖気のするような拍動が胸の奥から響く。
 その意味に思い当たろうはずもなかった。
 ただ呑まれて立ち尽くす。

「――ァ、ガ…………」

 鼓動に合わせて目の前の異形――最早、まともな体躯を保ってなどいなかった――が揺れる。
 漏らされた呻きの合間に牙のぎぢぎぢと擦れる不快な音が混ざる。
 鼓膜を鑢で削られたような錯覚に、強引に意識を引き戻された。
 ――これは。

「……あんた、おい――おい!」

 彼が。
 こうして身を伏せている。
 その意味は青年には分からない。何を悟れるはずもない。
 それなのに胸の奥が呼応して軋む。

 呼ばれている。
 そのことにすら気付けない。

 魅入られるとは、そういうことだ。



「どうしたんだよ、一体……返事しろよ!」

 その身に手をかければ、ずぶりと指が溶け崩れた肉に沈んで埋もれた。背筋が寒くなるような触感。ひっきりなしに震え弾ける深奥の鼓動が伝わる。同化を求めるように皮膚を伝い、掌を呑む。
 いらえはない。肉塊が、突き出た骨でも爪でも牙でもない何かが、形を保とうと頭を擡げては藻掻き、崩れる。
 吹き散らされて頬に貼り付いた液体は脂のように厭らしく肌に残る。黒く汚されていく。人でないものが呼んでいる。

 お構いなしに手を伸ばす。

 繋ぎ留めたい。そう思っていた。
 自分を攫い、閉じ込めた忌まわしき仇。憎むべきもの。
 自分たちのような人間など路傍の石程度にしか思っていない。いやそれ以下だ、玩具であり、気まぐれに弄んで、気に入らなければ殺して、まともな倫理観など持ち合わせておらず野放図で、傲慢で、こいつさえいなければ。
 こいつさえいなければ。



 ――こいつさえいなければ、今も家族と暮らしていられたのに!



 そのことすら今は忘れて。
 ただその姿を追い求める。
 貌の崩れ切った中に、――どうか、冀う。

「真朱、真朱――」

 あなたを失いたくないと、心の奥が叫んでいる。
 だから。

 ――なのに。

「……おい! 早くなんか言え! なんだよ、誰か、呼んだ方が――」

 そうだ、クロだ。自分よりも強い、いつも彼の傍らに在ったあの狼。異貌の妖魔たちの中でも一際強い力を持った。彼なら何か知っているかもしれない、あの獣ならきっと、自分には知らない何かを、

 手を引く。
 離れようと、どろりと後を引く感触を指先に感じながら、



 次に身を襲ったのは、穿たれる灼熱。







「――え?」



 ぼぎ、と。
 今度は確かに、自分の中にその音を聞いた。

 突き出された腕に似た器官に、生え揃ったそれは爪穿か。鈍く鋭い鋒が胸を貫いている。
 折り曲げられれば身が拉げ、砕けた骨、裂かれた中から溢れる内腑、あまりにも容易い。
 憐れまれるほどに脆い。

 爪が握り締められる。
 千切られる。潰される。傾いでいく。



 青年の身体からぶち撒けた赤い血が、なお濃い朱に呑まれて失せた。