52.「真朱」

 瞳に映る空は変わらぬ色をしていたのに、世界の様相は既にひどく様変わりしていたように思う。
 空気が濃い。そう感じた。

 それと、血の臭いがする。

 視線を落とせば血の跡が岩床を汚していた。
 乾き始めているそれは自分の流したものではない。なにせどこも怪我をしていないのだから。
 だが他に原因を求めようにも見当たらない。他者の姿は見られない。亡骸すらも存在しない。

 これはどういうことだ。
 誰が。どうして。一体。ここは。

 自分は。



 ――誰だ?



 今更に我に返ったところで答えが導かれるはずもない。
 空は青い。柔らかな風が頬を擽って吹き渡る。
 なのに。なのに、語りかける世界の声音が、膚を通り抜ける空気が何もかもが、なにかひどく致命的な”ずれ”を主張してやまない。
 違うのだ。違うのだと。

 お前は違うのだと、排斥するでもなく、ただ伝えてくる。



「……真朱」

 低い声。弾かれたように振り返る。
 大きな黒狼。見慣れたその姿がこちらを見上げている。

 視線が合う。頭を垂れる。
 ひどく畏まった様子であった。
 誇り高き妖のその態度に、強烈な違和を抱く。

 違う。
 それ以前の問題だ。
 これは今なんと言った。
 彼は。

「時は、満ちたか」

 眇めた金の瞳は眩しげにまた哀しげにこちらを見上げていた。
 どこか。何か、決定的に欠け落ちているものがある。
 彼はそれを知っているのか。
 知っているからこそ、こんなにも。



 ――彼は今、自分をなんと呼んでみせた?



「真朱? どうした。その身体は馴染みが悪いか」
「…………」
「随分と時間をかけて丁寧に慣らしていたが――さて、何か合わぬところでもあったかね」

 言葉は耳を通り抜ける。
 その意味も意図も同じようにすり抜けて、何一つ心に留まってくれない。
 ただ。

「……ちがう」
「真朱?」

 こちらの様子がおかしいことに気付いたか、黒狼は表情をわずかに険しく距離を詰める。
 その瞳はこちらを見ている。その瞳は自分を見ていない。

「違う、俺は――」



 ことばが、

 途切れる。



 語るべきを見失う。
 立ち尽くす。
 視線はこちらを向いている。
 射抜かれる中に自分はいない。

 自分は。――自分は。



「……真朱?」



 ――誰だ?