53.妖魔たち

 立ち尽くす。
 交錯する視線は、しかし正しくは交わらない。
 違うものを視ている。
 違うものとして視られている。

「……クロ」
「どうした、真朱」
「ちがう」
「?」

 息が切れる。
 眩暈がする。
 どくりどくりと、何かが体の中を巡っている。
 ぐらついた脳味噌がひっきりなしに悲鳴を上げる。
 膝をつく。呑まれてしまいそうな恐怖に浸される。混乱している。視界が明滅してぐるりと回る。引き絞られたように内腑が痛む。

 声が、震える。

「ちがう。俺は、……俺、は」
「真朱」
「――っ」

 気付けば金色の瞳に射抜かれていた。
 あまりにもまっすぐに、あまりにも躊躇いのない、何も疑うこともない視線。
 それなのに、

「……混乱しているのか。定着がうまく行っていないか? あれが、素直に受け入れるとも思えなかった――」

 どこかひどく、諦観に満ちた。

「何の、話――」
「真朱」

 繰り返し。名を呼ばれるたびに血が跳ねる。意識が強烈にそれを否定して、奥底で何か手引かれて、何一つ認められず身体が二つに裂かれるような錯覚を覚える。
 それなのに。目の前の黒狼は全て知ったような顔で、

「お前は『真朱』だ」

 ――気付かぬうちに、他の異邦の妖魔たちも集い来ていた。
 みな一様に自分を視ている。込められた視線の意味が理解できない。
 理解できないなりに、明らかに、異質な何かを視る目であることだけが分かる。
 そして、自分が何であるかを見失う。



「この山を統べる我らの主だ。――どうか、我らを導いてくれ」



 傅いた獣に妖魔どもが従う。
 その言葉を、受け入れることができたら、どんなによかったろう。



 受け入れることができないから、立ち尽くす。



「……ちがう」
「…………」
「違う、俺は……違う。そうじゃない、俺は――そうだ」

 弾かれたように面を上げる。
 胸を去来した風には懐かしい芳しさが満ちていた。
 会いたい人が居る。戻らなければならない場所がある。
 ――家族のもとへ、帰らなければならない。

「……俺は、お前たちの主じゃない。そうはなれない。俺は、人間で……だから、俺は、帰らないと」

 それは確信で、また、当たり前の選択でもあった。
 ずっと帰りたいと思っていたのだ。それをあの男に、この地に阻まれて。
 今はどうだ。自分を阻むものはないもないと分かる。風がそう告げてくれている。
 強い確信があった。
 今ならこの山を降りることができる、と。

 だがそれを悟ってか。
 はたまた別の理由か、目の前の黒狼は表情を険しくして。

「……真朱。お前は、我らが主だ」
「だから、俺は――」
「お前は真朱だ。そして、お前は我らと約定を交わした」
「クロ!」

 自分の声が聞こえていないのか、或いは端から相手にするつもりなどないのか、揺らがず彼は語り続ける。

「……お前はそれを反故にするというのだな」

 言葉の意味だけ取れば責めるそれであったが、一方で声は、どこか悟ったような色に満ちていた。
 そして何より静かだった。動かし難く。動かされることなど知らぬかのように。

「……それは」

 そんなことは自分の知ったことではない。そう切り捨てるのは簡単だったが、そうするには年月が拒む。
 彼らとの交流は、あまりにも深くなりすぎていた。

 それでも彼らと同じモノになれないことを分かっていた。

「……俺は、お前らが、なんで俺のことを真朱なんて呼ぶかは知らない。約定なんて、交わした覚えがない。――俺は真朱じゃない」

 繰り返し、否定。

「俺は、もともと望んでここに来たわけじゃない。無理矢理連れて来られただけだ。俺には帰るべき場所がある。帰らなければならない場所がある」



「――俺は、お前たちの主には、なれない」



 宣告。
 断絶。
 最初から、どうしようもないことだった。
 彼らが自分に何を望もうとも、自分は、自分以外には成り得ないのだから。

 ――自分は。








「……――そうか」

 黒狼が吐き出すように頷く。
 それまでの沈黙はひどく長いように思えたが、実際はどうだったのだろうか。
 感覚が狂い始めているのを感じる。空の色は変わらないのに。吹き満ちる風はこんなにも懐かしいままなのに。

「お前は我らを置いて、この山を降りるというのだな」
「うん。……ごめんな」
「分かった。それがお前の意思なら、それでいい」

 そうして振り返る。
 付き従っていた異貌の妖魔たちが、諒解したように頷き頷き、踵を返して去っていく。彼らは皆一様に同じ方向を目指していた。
 山を、降りているのだと分かる。

「……どこ行くんだ?」
「元より我らは真朱の加護のもと、この山を拠としていた。それが失われれば、元来この地を根城としていた妖魔どもが押し寄せてくる。我らにはそれに対抗できるだけの力はない」
「クロ、お前、俺よりも強いのにか?」
「……悪い冗談はやめろ。それに――嘗て故郷で振るえただけの力は、もう失われている」

 世界を弾き出された負担はそれだけ大きかったのだという。
 今はただのしがない妖魔だ、そう続けてから、

「だから、我らは山を降りる。……麓に山里があったはずだ。まずは、あの地の人を喰らう」

 断絶は、間違いなくそこに横たわっていた。



「――は?」

 狼を見下ろす。
 この世界の獣の姿を借りた、しかしもとは異界より来たる畸形。
 ――彼は、間違いなくその仲間だったのだ。