58.雨
振り返れば世界は朱く、
いつからこの道を歩いていたのか、わからなくなる。
「お前は、ひとを愛したことはないのだろうな」
したり顔ですらない。淡々と刀鍛冶が吐き捨てるのは、その事実に確信があるからだろう。
自身の鍛えた刀で花冠を地に縫い止め、憂いに翳る怜悧な瞳は、恐らく自分の奥底に在るものを正しく見て取っている。
「……何故、そう思う」
言葉を紡げば傷に響く。鎖骨のすぐ下を貫かれて、痛みは灼熱に似ていたが苦痛ではなかった。視線をやれば刃が朱く燃えている。邪に蝕まれているのだと分かった。
その邪は自分の身の内にある。
蕩けたそれが奥底で、静かに煮え立ち蠢いている。
「お前のこれは愛ではないからだ。……少なくとも、今のお前は」
「……っ」
ぐり、と、刀身を捻られて息を詰める。温かい滑りが背筋を、首を、後頭部を浸していく。
「錯覚しているのであれば、正した方が良かろう」
「親切な、ものだ……」
「いや。私の自己満足だ」
刀身は灼けて目に眩しい。埋み火を引き出して伝わる熱が、どろりと空間すら歪ませそして肌を撫でる。
焦がしていく。焦がれている。
「……そのままでは、あまりにも報われないだろう」
なにがだ、問い返す前に、鎔けた刀身がぼきりと折れる。
彼が人であった記憶は酷く虚ろなものだった。
ただそれだけが頼りで、それだけが縋る先だった。
あたたかいもの。愛に似たもの。比護欲。責任感。人との関わり。家族。
そういうものに抱かれて、彼はその精神性を形成していたはずなのだ。
すり抜けた魂、残った魄だけではその全てを読み取ることはできなかった。
だから、未だ歪で、ひどく不完全だ。
へたくそな似せ姿の無様さを、指摘してくれる者はいなかった。
見知らぬ山を歩くのは慣れていた。
ささめきの中から自分の知るものの残滓を嗅ぎ付けてはそちらへ向かう。
遭難しているかのような放浪ぶりは、なるほど端から見たら異様だったろう。
「いやあ、本当に神様かと思ったよ。お迎えかとも」
「すまないな。驚かせた」
「いいや。助かったのはこっちだからね」
背中に負われて人懐こく笑う壮年の男性、彼は薬を売って生計を立てているらしい。
目当ての薬草を求めて山深くまで入ったはいいが、悪天候に道を見失い、加えて転倒して足を挫き、立ち往生してしまったのだという。
こんな深いところまで来てくれる人は他に見たことがなかったから、と眉を下げていた。
「あんた、旅人なんだろう。宿は決まってるのか?」
「いや。専ら野宿だ」
「おや、そうなのか。まあそれだけ山に慣れていれば野宿でも大丈夫だろうが……うちに着いたら泊まっていかんかね。恩返しがしたい」
「……特に、気を使わなくても構わんが」
「こっちの台詞だよ。あんたは命の恩人だ。……まあ、無理強いはしないけどね」
雨に濡れてぬかるんだ足場の悪い道をざくざくと歩む。
それから、ふと気になって口を開く。
「……家族」
「何か?」
「家族が、いるのか。お前の家には」
「ん? ああ、そうだね、女房がいる。こんな姿を見せたら怒られるだろうなあ。ただでさえ遅くなって心配をかけているだろうに」
「そうか……」
家族がいるのだな。
繰り返して、道を歩む。
雨の止まない道を歩く。
自分にとって雨は気心の知れた友に似ていた。
その音に耳を打たれ、冷たさに身を打たれ、そうすることで安堵を得る。
冷たいはずなのに、あたたかな安寧の中に居るような気分になる。
その日も雨が降っていた。
奥底で魂が震えている。嗅ぎ慣れた、けれど新鮮な、故郷の芳しい大地の香り。
捜し求めたその地に辿りつき、自分の在り処を見つけたのだと、感極まって心を揺らされたはずなのに、
自分の知る、誰もがそこには存在しない。
雨はどこであろうと変わらずに。
それだけが自分に寄り添って、踏み締めた故郷は何故だか遠い。
再会を願った、声を追い求めた家族の、
墓がどれかさえ、最早自分には分からない。
雨が降っていた。
雨が降っていた。
雨が降っていた。