7.在り処
狐とも狼ともつかない獣だった。
白銀の尾を大きく膨らませ、震えを抑えんと食い縛られた牙が鋭くも幼い。
怯えと痛みの両方に耐えながら、絶え絶えの息でこちらを見やる。
「近寄らないで」
その獣は手負いだった。
罠にでもやられたか、他の獣にやられたか、抉られた脇腹が毛並みを赤黒く染めている。
隠れ蓑になる筈の積雪すら朱に汚し、吐息の熱さで融かした雪に頬を埋めて、けれどこちらを睨んでいる。
紫苑の瞳に敵意が満ちていた。
その敵意は畏怖の表れであり、萎縮の表れであり、戦慄の表れでもあった。
自分が獣の存在に気付いた時から――あるいはそれより以前から、押し殺すよう向けられたそれは、ひどく複雑な色をしていた。
「だが、その怪我は――」
「来るな! 触るな!」
威嚇の吠え声すら悲痛だ。
竦む身体を引き摺り下がろうとするも、四肢がうまく動かせずに膝を折る。
不格好な血の足跡ばかりを増やし、その身体が力尽きる。
「なんなんだよ、あんた」
獣の瞳がこちらを見ている。
自分ではない、何かを見ている。
「一体、なんてもの、飼ってんだよ――」
見ている。
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戦い方を変えた。
何の心境の変化があった訳でもない。特段行き詰まりを感じた訳でもない。
ただこの地で今の花冠が戦うのならば、こちらの方が正しいのだと、そう感じただけだった。
曲弦を繰るよりも、握り締めた刃で風で斬り捨てる方が早いのだと、そう信じただけだった。
突き立てた刃を引き肉を裂き、返り血を払って再び地を蹴る。
距離を詰めた勢いの侭振り下ろした刀が急所を捉える、その感触が腕に伝わる。
あまりにも遅かった。
――それでいい。
納得尽くで戦わぬやり方を、本能に任せて戦うやり方を、長い時間をかけて封印してきていたはずだった。
膂力に任せるよりも技倆を研ぎ澄まし得たものを活かすことを好んでいたし、そちらの方がより理性的に、不用意を起こすことなく確実に戦えるのだと。
信じて已まなかったはずのそれを、少しずつ、切り捨てていた。
――早く。
低下した身体能力で敢えて接近戦に挑むことの意味を、花冠は諒解していない。
意識的に、あるいは無意識的に選んだ戦い方を繰り返す。裡より来たるものに信を置き、納得も何もかもを放り捨てて、本能に身を任せる。
感覚に従うことを、快いものと想起する。
その全てが快いのだと、疾うの昔に知っていた。
どうしようもなく忘れていて、今も思い出せないでいる。
思い出さないでいる。
――ここがお前の在り処だ。
捻り潰したひとつめの硬さと柔らかさ、寸隙置かずに踏み躙り弾けた肉の色、広がる血と、あれは悲鳴だったろうか、けれど全て覚悟の上で、どちらもが選んだことであるがために気に病むことなどなかったし気にするつもりもなかった、双方が望まず、双方が決めた結果で、故に責任は両者にあるのだから背負うものなど何もないのだと、それを知って、されど、共に過ごした、笑った、手を取った、言葉を交わした、その全てを、全てが、今壊れて、壊して、引き金を引いたのは自分ではなくとも、そもそも何が引き金だったのかすら知らないまま、どうしてと血に沈んだ掌の色も見られずに、永遠に失ったその背中に追い立てられて、追い掛けて、罵声が聞こえる、咆哮が聞こえる、耳鳴りがして喧しい、こんなもの全て、なくなってしまえばいいのにと、そう願ってやまないはずが捨てられず、摘み取る作業すら機械的で、汚れていく、汚していく、穢していく、落ち澱んでいくことの、
それがあなたの望みですか。
逃れ得ぬものから目を逸らす。
――忘れるな。
――お前の根源にあるモノを。お前を産み落としたモノを。
――お前が何であるかを。
獣の咆哮が聞こえる。
ずっとずっと哭いている。
叫び続けている。
――分かっているだろう、なあ、”真朱”?
嗚呼。
本当に、喧しい。
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「――あんたさ、すっごく怖いんだよ」
処置を受け、幾らか警戒心を緩めたらしい獣の、それでも自分を見る目は怯えていた。
逆立ちっぱなしの毛は、いつまで経っても治まる様子は見えない。
「……正確には、あんた自身じゃない。あんたは、多分、いいひとなんだと思うけど」
耳を垂れ、敷布に凭れる。
「気配が強すぎるんだ。眩むくらい。……そいつだってそもそも、身を潜めるつもりなんて全然ない。すぐにでも産声を上げてやるって、いのちを食らってやるって、そう息巻いてて、……だから、僕はすごく、怖かった」
言ってから首を振る。
今も怖いと顔を顰める。
「……お前のようなあやかしや人を食らった記憶は、俺にはないが」
「それは”あんた”がそうだからだ。だからまだ、あんたは何も食らってないんだ」
「……ねぇ、あんた、自覚ないの」
何がと問う。
獣はびくりと耳を立て、それから恐る恐るに窺うよう、躊躇う色を残したまま、嗚咽にも似た声で告げた。
「――そいつが今食らっているのが、他ならぬあんたなんだよ」